ヴィジョン・セミナーⅠ-2-9

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第九講

1931325日の

セミナーです。

 

目の象徴は、さまざまな地域や

時代に描かれる元型で、この後に、

彼女が描くことになるマンダラの

先取りでもあります。

 

クリダリーニの眉間のチャクラが、

両目の間にあり、知や知ることを

表しています。

 

次の新しいヴィジョン

「強そうな巨人が、髪の毛を雨に

対して逆立てていて、私を見つけると

彼の頭の上に乗せて、海の下に降りて

行きました」

 

海の下…無意識の世界に入って行って

おり、前回のヴィジョンの最後の、

黒い壁を通せたかどうかは書かれて

ないが、眼球の中の入って行ったと

考えられるので、超えられたようです。

 

雨は、ドイツで子ども達の

成長早めると信じられていて、

わざと春雨を浴びさせるという

風習も残っています。

 

雨だけでなく「自然」というものは、

単に物理的な存在だけではなく、

いろいろなマナ(精霊)を表しています。

 

また「髪」は、思考・情熱・

性本能などの強さを示していて、

雨が花壇に水をやるように、

強さを育てて、

より強くしているようです。

 

サムソンは、髪を切られると

力を失うので、力強さそのものも

「髪」は表しています。

 

これは、これから彼女が

対処していくには、

かなり手ごわいという

ことを予測して、

それだけアニムスを

巨大化させる必要性が

あると感じていることも

表しているようです。

 

ヴィジョンの続き

「私たちは、のた打ち回る蛇に

囲まれて眠っている一人の女性に

出くわしました。

 

彼女に『起きよ。時は来た』

と巨人が呼びかけると、

蛇たちが大人しくなり、

女性も起き上がった。

 

静かな蛇たちをまたいで、

私に歩み寄って来て、

私に口づけをしました。

 

彼女の顔は浅黒く、

唇はふくよかで赤かった。

彼女はとても力強く見えた。

 

彼女は私の手を取り、

たくさんの若い男性のいる

部屋に連れて行った。

私は、彼女がそのうちの

一人に近づいて、

抱き締めているのを見た。

彼は私を呼び、

二人を両腕に抱いた。

 

それから彼女は再び

私の手をとって、

別の部屋に連れて行った。

そこで私は、

たくさんの老いた

男性が地面をじっと

したまま見詰めて

座っているのを見た。

 

彼女は老人たちに

『皆さんに贈り物を

持って来ました』と叫んだ。

私たちが通り過ぎると、

老人たちは立ち上がって

目を上げた」

 

ここは、きっと

海の中の洞窟です。

のたうつ蛇に

囲まれてというのは、

明らかに女神である

ことを示しています。

 

蛇に囲まれているのは、

「注意せよ」

というような

意味のようです。

 

ふくよかに赤い唇は

エロスを表していて、

「皆さんに贈り物」

というのは、

儀式的な売春のことを

指しています。

 

彼女をイニシエート

しようとしていますが、

彼女の意識の信念は、

売春とは相反しています。

 

老いた男たちとは、

若い女性からは

嫌らわれる存在で

街娼としてのランク

としても最低です。

 

これは補償で

逆にこの女性の

プライドの高さを

表しています。

 

それは自分を出し

惜しんで運命の決定に

服従しようとせずに、

心全体の望むことよりも、

頭で考えたことに固執し、

頭で自分を支配しょうと

していることを表してます。

 

17歳ならこういう

頑なさも許されたとしても、

彼女はもう35歳で向きを

変え始めるべきときです。

 

本能に任せ過ぎると

性的な行動化が激しく

なり過ぎますし、

彼女は逆で、本能を失い

有用なもののためだけに

生きようとし過ぎています。

 

ヴィジョンの続き

「私たちはたくさんの

嘆き悲しむ女が立っている

部屋に入ったが、多くの

女たちは彼女を見ると逃げ出した。

 

残った数人に彼女は

『わたしのことを

知っておきなさい』と言い、

彼女が女たちの額に触れると、

彼女たちは新しい力に満たされた」

 

この女性クライエントに

似たような大部分の女たちは

回避して逃げていったが、

彼女を先取りした女性たちは、

大地的なエネルギーに満たされます。

黒蛇が左脚を這い上がって

来た時からの本能的なエネルギーです。

 

ヴィジョンの続き

「彼女について長い階段を

降りて行き、煮えたぎる

原初の混沌の穴を見ていると、

形のない塊の中から、

結晶の男が創り出され、

彼女が生命を吹き込むと、

彼は生きた人間になった。

 

そして彼女は消え、

その男と…は、

その穴から陽光の中に

上がって行った」

 

根源的な無意識に

触れてはいますが、

一歩間違うと

溶かされてなくなって

しまうような危険で

圧倒されるような

体験をしています。

 

「男と…は」と、

「私」が脱落していますが、

ヴィジョンの中では

一緒にいたのに、

そのヴィジョンを

信用できずに、それを

認めていないようです。

 

生きた男性になったということは、

現実の生きた男性に転移・投影

されることを示しています。

 

クライエントは、セラピストが

自分たちが持っていない宝を

持っていると思い込むので、

セラピストに転移を起こします。

 

分析をし尽くしても転移を

未然に解消するということは

不可能です。

 

生きた対象に投影して、

その対象に接触してみて

初めて、ある価値を

本当に引き出すことが

できるようになります。

 

そうして投影された価値を、

その対象から取り戻せた時に、

転移を超えることができますが、

そのプロセスを通らないと、

本当の価値を手に入れて

統合することもできない

ということをユングは強調しています。

 

しかし、相手に価値を

見い出したまま取り

戻せないままにいると、

相手に振り回されたり、

行動化してしまったり

してしまうだけになります。

 

価値を相手の中に

求め続けても、それは

永遠に得られないままなので、

ギリギリの危険な

賭けのようですが、

近づいて一瞬だけ接触して、

すぐに自分の中にに、

それを取り戻していくことで、

やっと完成するのです。

 

この女性クライエントは、

結晶の男を投影した男性と

接触はしなければなりませんが、

「男と…は」と、「私」が

脱けているので、一緒に

階段を上がっていくという

ヴィジョンは見ていたものの、

まだショッキングな状態のままで、

自分が一緒だったということを

消してしまおうとしています。

 

ヴィジョンの続き

「私はあの黒い壁の前に

立っていた。目に向かって

『どうやって、この壁を

乗り越えたらいい』と聴きます。

 

目は内向きになります。

私の自分の目を内向きにしてみた。

そうすると、私自身の内部に、

成長しつつある一本の木を

見つけました。

 

再び、外向きに壁を見ると、

近くに一本の木が

成長しているのが見え、

その木が私に近づき、

私を抱えて壁の

向こう側に

持ち上げてくれました。

 

壁の向こう側には

一人の老人がいました。

私は、彼の目を覗き込むと、

もがき苦しむ人体で溢れた

大河が見え、土手に立つ

数人が呼びかけると、

水が幾つかの魂を

土手に投げ上げました。

 

老人の目の中に

一つの星と太陽を見ました。

 

すると、老人が

『よく見たな』と言い、

老人は大地の中に

沈んで行きました」

 

越えたと思われた

黒い壁は、まだ

越えられていなかったのです。

 

内側と外側に、

成長の象徴である

成長しつつある木を

見つけました。

 

木の成長を動かずに

待つという態度でいると、

木が、とても不可能と

思われていたことを

越えさせてくれたのです。

 

この老人は老賢者を表して

いるように思われます。

 

「目を覗き込む」

ここで「目」「ホルスの目」が

再登場しています。

 

目を覗き込むことで、

老賢者の見ている世界を

味わいます。

 

一つ一つの身体が、

個々人の生命で、

繰り返し溶け合ったり、

再形成を繰り返して、

何世紀にも渡る人類の

歩みを見渡しています。

 

流されているだけの

多くの人々と、

 

土手に立って流れと

無関係に眺める人たちに

別れています。

 

多くの人々は盲目に、

混沌の中をただ生きます。

 

少数の一部の人だけが、

死と再生の永遠の輪から、

外側から眺めることで

離脱して客観視する

意識を持つのです。

 

東洋哲学の輪廻を克服して、

意識を外側に置くことで、

解脱されるという救済を

意味しています。

 

一度、生のもつれや混沌に

身を置いて受け入れて、

それを離脱して意識化する

ことで、意味を見い出して

行けるということを

伝えているのだということで、

この期を終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-8

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第八講

1931318日の

セミナーです。

 

ヴィジョンの続き

「私は洞窟の穴から出る。

山羊と白蛇がついて来ます。

 

光輝く黄金の円盤が地面に

あるのを見つけます。

 

その黄金の円盤の上に、

呑み込んだ黒蛇が、

喉から跳び出して、

落ちると一握りの灰に

変わりました」

 

この黄金の円盤は、

木の下にあった

黄金の池が変化したものです。

 

黄金の円盤は太陽でもあり、

火なので燃えて灰になります。

 

彼女が吐き出したのではなく、

蛇が自分で跳び出したようです。

 

「喉から」ということに

なってはいまるのですが、

教養のある女性の場合は、

露骨に性的なものからとは

表現せずに隠喩化した可能性も

あります。

 

また、ヨガのクンダリーニという蛇も

下腹部から脊椎を上昇していきます。

 

そして身体の中で昇華されて変容します。

 

ここで言う昇華は、「性的なファンタジーを

ピアノを弾くことに向けた」という程度の

昇華ではなく、抑圧のことを言っているの

ではないと言います。

 

真の昇華とは、性的ファンタジーの受容であり、

理解の及ぶ限り、その性的事実を自分の生の

中に組み込んでいくことです。

 

灰になるとは、黒蛇によって身篭るような

変容イメージで、フェニックスのように、

燃えて灰になって、再び鳥として蘇ります。

 

フェニックスより、もっと古い象徴として、

ペルシャ神話のセメンダというものがあります。

 

セメンダでは、一度灰から蛇に変容し、

その蛇から鳥へと変容していきます。

 

ヴィジョンの続き

「白蛇たちは円盤の傍らでとぐろを巻き、

山羊もそこに立ち尽くしていた。

私は一人で歩き続け、黒い壁のところまで

やってきました。

 

壁には、一つの星と一つの目が見えます。

私は壁伝いに歩きながら、壁を通り抜けて

いく道を探した」

これが、今回の一連のヴィジョンの最後です。

 

動物たちを黄金の池に残したまま、

明らかに彼女は、上方に向かっています。

 

黒い…完璧な闇の壁…障害物ですが、

一つの星…昔は星は天の膜に穴が開いて

と考えられてきました。

 

目は何か。光を受け取るという働きと、

光を放射するという働きがあります。

 

科学的な観点から言うと、

目は感覚器官で、外界の光を

受け取るという働きだけです。

西洋的な、外向的な考えです。

 

しかし、デカルトの「我思うに我あり」

という考え方のように、「目の前の机は、

私が『そこに机があると思うから、

机が存在する』という考え方もあります。

 

心理学で言う「投影」で、

通常はスクリーンや、投影される

外界の事物があるが、その事物に

いろいろな意味を付加したり、

その中に幻想を映し出してみると

いう考え方もあるのです。

 

映写機の光を放射する穴を、

目と同じように考えます。

こういう内向的な考えは東洋的です。

 

あるヴィジョンを見ても、

それは我々が作り出しただけと

考えて、合理的説明で力を去勢します。

 

でも、人間は知性だけで、

記憶にない、知らない物を

作り出すということはできません。

 

天啓を受けてダマスカスに向かうパウロに、

それは幻に過ぎないとか、性的リビドーの

抑圧に過ぎないと言っても、彼の心には

響きません。

 

合理的な説明ができなくても、

彼にとっての真理なのです。

 

ユングの目的も、科学的な心理学体系を

打ち立てることではないと言います。

 

個人にとって、決定的となる方向に

向かう障害物を取り除く方法を知る

ということが、目的だといいます。

 

ユング自身、ユングの目指すのは、

科学ではないと言っています。

 

ある別の女性患者は、感覚的な事実に

のみ拘ってしまうので、無意識に

近づいていけないということもあります。

 

悪魔をチラッと見るだけでラーの神は、

視力を失います。そして、セトに片目を

貰って回復します。

 

ヴォータンも、言葉を話す泉ミミルに、

知恵の水を一口飲ませて貰う代わりに、

片方の目を捧げています。大地の知恵との

つながりを得るために、目=知性を

犠牲にしなければなりません。

 

目を瞑って、外を見ないようにして、

内界を探ることでしか、わからない

知恵があるのです。

エマーソンの引用をし、「円こそ神」とか、

円環が補償的な働きであること、

カトリック教会にも目が描かれているが、

エジプトの「ホルスの目」からのもので、

「すべてを見、すべてを生み出す」もの

と、円がいかに原初的な大事なものかを

示しています。

 

西洋科学だけで言ってしまうと、

目は、知覚器官とという身体プロセスに

過ぎないものになるが、ファンタジーを

生み出すという面も備えているが、

西洋の概念だけだと、幻で実体のない

迷いごとでしかないことになるが、

 

中国では、星を光を放つ陽で、宇宙を示し、

目は陰だが、生理現象だけに還元できない

創造が含まれる主体的要素だと考えている

ということを示して、八講を終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-7

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第七講

1931311日の

セミナーです。

 

白蛇は交換可能で対立や葛藤から

協調する方向なので、彼女は

あがくのをやめ、横たわります。

 

しかし、緑の目の黒蛇は、

強い動きを持っていて、

何かが始まるようです。

 

ヴィジョンの続き

「すると黒蛇は巻きつくのをやめ、

私の傍らにいるだけになります。

 

『お前が歩くと巻きついて邪魔をする。

お前が休むと、お前の傍らにいる』

 

それから私はいきなり怒って

立ち上がり、その黒蛇を掴んで、

それを飲み込んだ」

 

自我中心の積極的な意志が動き始めると、

抵抗をしますが、諦めると休むというように、

蛇の動きは彼女の動きに連動しているようです。

 

動かないことを求めているようです。

 

次の「蛇を食べる」ことは、いろいろな

類話があり、そこから類推していきます。

 

①は、お伽噺に、蛇を食べて動物の言葉が

わかるようになったという話があります。

 

②蛇をトーテムとするインディアンの話ですが、

誰かを殺せるほどの力をつけるために、

蛇を食べるという話もあります。

 

③「マクベス」の中で、魔女たちが大鍋に

蛇を入れて食べるという場面があります。

 

④グノーシス派の人は、蛇の前で聖餐式を

行うようです。

 

⑤オルペウス教のサバジオスの秘儀では、

服の中を蛇に通過させる…象徴的に、

蛇を食べるということをやっています。

 

⑥エレウシス、エレクテウス、アクロポリス、

ケクロプスなど英雄が死んだ後に蛇になる

という伝説があります。

 

⑦ニーチェが「ツァラトストラはこう語った」

の羊飼いに関する章でも、蛇を食べます。

 

つまり、一つは魔術的な力を同化するためです。

祖先も埋められている大地の持つ、

魂の暗黒面を同化していくということです。

 

神は自分の仕事がいかに不完全かを

人間に知られたくなかったが、

人間を啓蒙した楽園の木の上の

蛇こそが、人間に意識をもたらし、

救済者であるという考え方もある。

 

ツァラトストラは、知性や意志・

合理主義こそが世界を支配できると、

大地から離れて昇ろうとするが、

大地に縛られていることを理解する

ために、蛇を呑み込むことが必要だった。

 

上昇の問題は、初期のキリスト教での

十字架が円の中の十字で、日輪・太陽の

象徴だったが、クロスする点が上昇して

下降する線の方が長い十字になっている。

 

また、古代人の未開人も、像や図像が

崇拝対象ではなく、その中の霊だと

自覚しているが、プロテスタントの

時代になり、像そのものと考えたために

偶像を否定するようになったそうです。

 

分析を受けている人の中に、

十字架に蛇が這い昇るイメージを見る

人は多く、大地の中に置き去りにされた

魔力を再統合することにも関係

するようです。

 

昇り過ぎて落下していきますが、

そういう退行によって、時代を遡り、

蛇でもある、ディオニュソスに

回帰したのです。

 

ツァラトストラのニーチェも、

ディオニュソスに任せ切ることが

できずに失敗した面もある様です。

 

ユングの頃のクライエントは、

ユダヤ教やカトリックの人は、

信仰体系に伝統があり、

自分で考えたり悩むよりも、

司教に聞く、司教もわからなければ、

バチカンに聞く。

 

とにかく、そう信じることで

機能しているが、何世紀もの

人間の欲望やリビドーを

コントロールしてきた

信仰が破壊されると、

その大量のリビドーが

流れ出さざるを得なくなるのだ

と言っています。

 

七講は、ここで終わっています。

 

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-6

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第六講

193133日の

セミナーです。

 

彼女自身が、一本の木に変身し、

その周りを森が囲み、

その外側を血のような

燃えるような赤が囲んでいます。

これはマンダラ構造になっています。

 

我々は外界の景色を目にした時、

目の中に外界が写っています。

見えるものは自分の一部を形成

する材料にはなっていきます。

ホルスの目です。

全世界を見たら、全世界を

心の中で描けるようになります。

 

外界の話ですが、集合的無意識も

同じで、そこにすべてがある

とユングは言います。

「私の無意識」という言葉は、

集合的無意識ではナンセンスだと。

 

排除したり取り入れたりして選択し、

個人の壁や境界の中に、囲うのです。

 

昔から、円の中により目的に沿う、

魔物や死霊に関する要素を集め、

魔物を召喚しようとしたりする

魔法陣というものもありますし、

 

古代人は、守り神として、

その人のより優れた面を

集めたダイモンという霊が、

その人の体に住み、

その人とともに死ぬと

考えられて来ていました、

 

また、病的な人は、

綺麗なマンダラに

なっていなかったり、

破れ目があったり

するようです。

 

自分の1/41/3が見知らぬ

自律的な要素に入り込まれると、

憑依や、ある旋律やイメージが

しつこく頭を離れなかったり、

強迫観念のようになることも

あると言います。

 

東洋では、中心点に注意を

集中させる中心化ということが、

言われて来たが、中心への

注意を維持せずに、外側の

壁に注意が行くと火は強まり、

焼き尽くされてしまいます。

 

彼女は、それを逆の

プロセスで進んでいます。

まず、血の中にいて、

赤い円と、その中の

一本の木になっています。

 

マンダラは、木の幹の横断面ですが、

縦にも木は伸びて、下方にいくと

根があり、その下には黄金の池があり、

上方に行くと、太陽に至ります。

上に成長する感じをもっているとも

言っています。

 

ラマ教でも錬金術でも、

対立する白と赤のペアを

より集めます。

 

そしてその二つの対立が

ぶつかりあうと大きな

エネルギーになります。

 

東洋には長い伝統があり、

鎮めながらエネルギーを

利用します。

 

西洋ではこの対立する

不穏な要素が数々の

面倒を生んでいますが、

このルシファーのような

面倒こそが、個であり

個人を表しています。

 

無意識から、その人独自の

部分を抽出して、その人の

個性化がはじまって行きます。

 

マンダラの4つの門は

リビドーの出入りする

出入り口ですが、

東洋では4つの調和や、

中心的であろうとして、

その4つから脱同一化

することが強調されて

きています。「対立するものから

自由であれ」と言われてきました。

 

西洋では、4つの機能の中の

1つの機能だけと同一化し

過ぎてしまいます。

 

次のヴィジョン

「私は笑っている山羊をみた。

それは、長い坂を降りて、

私を暗い洞窟の中に導いた。

 

そこで私は大きな二匹の白蛇と、

緑色の目をした一匹の

小さな黒蛇をみた。

 

黒蛇は私の左脚に巻きつき、

引き離そうとしても離れなかった。

 

二匹の白蛇が頭を顔の近くに寄せたので、

「あなたたちは誰?」と聞くと、

「私たちは、夜と昼、善と悪、

おまえの両眼、おまえの両手、

お前の両足」と。そこで私は、

闇の中で仰向けになり、

あがくことをやめた」

 

はじめの山羊は、ディオニュソス的な

原理や動物的な本能が彼女を

導いていることを表しています。

 

彼女は太陽の方に向いてしまいましたが、

上方にしがみつこうとすることが

彼女の永遠の問題で、もっと大地の

現実的な下方の無意識に

留まらなければならないのです。

 

そのために、洞窟に導かれています。

 

ただ、木になるということで、

逃げ隠れせずに、そこで起こることに

委ねざるを得なくなります。

 

蛇は、魔法使いの杖に巻き付いていたり、

医神アスクレピオスの職杖にもあり、

毒も扱えることを象徴するものでもあります。

 

また蛇は、下方から脊椎を昇ってくる

クンダリーニも関連して、その場合は

洞窟は人体の中の腹部にあたります。

 

白は、無垢さ、黒は邪悪さや毒気の強さを

表しています。

 

ただ、このへんの場面では、アニムスが

間に入っておらず、彼女自身が本能に

従っているのが印象的で、それは彼女が、

大地に根を張って、逃げられないという

事実に大きく関係している。

 

二匹の白い蛇は、対立したペアではなく、

右手・左手のように似たような等価同質の

ペアというものを表しているといいます。

 

また、左脚は…無意識の、暗い、不都合な側

を表していて、人間は基本的に未知の未来に

不安があり、前進する危険に対して、

過去が「足を引っ張って」抵抗する、

そういう側面を黒蛇が象徴している

ようです。六講はここで終わりです。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-5

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第五講

1931225日の

セミナーです。

 

彼女と集合的無意識の間という

アニムスとして正しい位置にいた

大勢で儀式をしていたインディアン

たちが逃げてしまっています。

 

次に現われた一人のインディアンが

「血を冒瀆したからだ」と

説明してくれています。

 

血の供犠に一緒に参加することが

必要だったのですが、彼女は

完璧や無垢・聖人を示す

白い衣装で登場しています。

 

野生動物の脅威や疫病や

飢えや寒さから、文明が

我々を守っています。

 

現実の脅威を遠ざけて現実味を

減少させて観念の中、上空に

生きています。

 

何でも想像でき、自由に切り替えて

安易に解決できる仮の世界に

生きています。血を軽視して、

本当の取り返しのつかない現実や

死を考えまいとしています。

それが「血の冒瀆」です。

 

無意識は、彼女にもっと血や大地に

降りて来ることを求めています。

 

ディオニュソスなどの古代人は、

自分が持っていなくて持っているべきものに

イニシエートされ、再生されることを

求めていて、牡牛や子羊を供犠して、

その血で沐浴が必要です。

 

血に浸かることは不快な気持ちや

興奮などをもたらします。

 

ヴィジョンの続き

「インディアンが彼女の頭に

血をそそぎ、彼女の衣は緋色になりました。

 

大きな血の渦が鼓動で振動しながら

私を巻き込んで行き、その渦巻に

身を任せると、それは私を螺旋上に

上方に運び、神の白い顔の前を

通り過ぎ、太陽を見て、黄金の池を

見て、一連の展開の早いヴィジョンの後、

暗い森のなかにいた」

 

鼓動を感じ、肉体的な感覚を

生き生きと現実味を強く感じて

います。

 

白い血の気のない神の顔は

後期のキリストのもので、

太陽はずっと原始的な神、

そして黄金の池…黄金は

錬金術でも求める価値でも

あるし、拝金的な、

現世利益的な貨幣の価値です。

 

彼女はあまりにも精神的な

善なる神を求めて来ましたが、

それは全体ではなく、

物欲的なものも、大地に

立つためには必要なのです。

 

ヴィジョンの続き

「血の渦の中にいる間に、

展開の速い一連のヴィジョンをみた。

 

神の白い顔の前を通り過ぎ、

太陽を見、黄金の池を見た。

 

それから暗い森の中にいた。

燃えるような赤い渦が

森を取り巻いていた。

木々の間からそれが見えた。

 

私の上着は緑色に変わり、

両足は柔らかな土の中に

沈んでいき、両手を持ち上げると

そこから葉が茂って来て

私は一本の木になったことを知り、

太陽に向かって顔を上げた」

 

白い血の気のない顔は

後期のキリストであろうと

言っています。

 

太陽は原始的な神です。

 

そして黄金の池は、

「金」を表しています。

彼女は崇高な最高善を

精神性だけを求めて

きましたが、それだけでは

「全体」にならず、

経済や錬金術を表す

拝金的な側面も…地や血の

性質として必要だということで、

彼女自身は強いショックを

受けています。

 

木への変身(メタモルフォーゼ)

がありますが、木は大地と太陽を

つなぐものです。

 

西洋文化での原始的な底は

動物になり、息というのが

もっとも原始的で、幽霊や

降霊会でも、風が吹くことで

霊の存在がしめされます。

 

東洋文化では、もっと静寂で、

植物的な引きこもり状態を

目指す面もあって、菜食も

そういう植物性を摂り入れる

という意味もあるのだと言います。

 

森の周りを囲む赤は、火でもあるが

元は血であるということと、

円周的に取り囲んでいるのは、

マンダラも表しているそうです。

 

しかし、この五講の最後の方の

マンダラが守りになるのは、

彼女がマンダラと同一化しない

状態で、円周の血の中に入って

しまうと、そうはいかない…

というようなことを言っていますが、

まだ、よく理解できません。

 

マンダラは、距離をとるために

必要で、融合してしまうと

よくないのかもしれません。

 

インドネシアなどの立体マンダラ

を見たことがありますが、

城壁や廊下などに囲まれて、

仕切られているところに

意味があり、赤く塗られている

ところは、城壁的な防御の

一つとして火が燃えていて、

その中に入ったら焼けてしまう

などとも言っています。

 

六講にもう少し補足があるのか

楽しみです。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-4

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第四講

1931218日の

セミナーです。

 

ヴィジョンの続き

「犠牲として祭壇に捧げられた子羊の前で、

たくさんのインディアンたちが輪になって

踊り、羊をほおり投げて、その血を顔に

塗りたくり、内臓を引きちぎって首にかけた。

私が、白い衣装で登場すると、内臓が宝石に

変わり、私はその宝石を貰うように懇願した」

 

インディアンということになっているが、

何故かキリストのように子羊を犠牲にしています。

 

一人のインディアンがアニムスでしたが、

ここでは集団で登場しています。

 

13世紀に、戦争・飢饉・疫病が蔓延した頃、

神が当てにならないので、人々は悪魔の方が

役に立つんじゃないかと、黒ミサが始まります。

 

ローマ人からすると十字架にかかった姿を崇める

こと自体が、サディスティックな異様な神で、

グノーシスの一派が、円陣を作って子どもを

死ぬまでほおり投げたという記録もあるが、

 

16世紀にローマ法王に禁止されていますが、

あちこちの教会で、このジュー・ド・ポーム

と呼ばれる子どもを犠牲にする儀式が

行われていました。

 

北米インディアンの部族も、自分たちが

生贄を使って、太陽の運行を手伝っていると、

本気で信じて、それをやめると太陽が

昇らなくなると思っていたようです。

 

しかし、神格化されて神になる体験は、

傲慢さやその生涯に一度の高揚の報いの

ために、自らや子どもの血や内臓の犠牲が、

子羊の犠牲を塗りたくって一体化する

ことになっていったようです。

 

血や内臓はまさに、生命力やエネルギー

そのものを表しています。

 

ヴィジョンの続き

「彼らに話しかけようとしたら、

彼らは消え、私は再び一人ぼっちになったが、

一人のインディアンが現れたので、

彼らが何故私から逃げたのかを、

聞いてみたら、『おまえが血を冒涜した』と

言い、そのインディアンの背後にたくさんの

動物がいた」

 

この冒涜は、ユングは彼女が神格化された

ことだと言っています。ありのままの自分を

しらず、幻想に惑わされてインフレーションを

起こすのだと言います。

 

彼女は、自分を素晴らしいと思い込み、

シャドウと絶縁して、シャドウに気づかないと

裂け目が生じます。

 

本当に気づいて一体化できるとコントロールを

失わないが、シャドウとのつながりを失ったことが、

血の冒涜になるのだと言います。

 

コントロールが不能となり、アニマやアニムスに

憑りつかれてしまうことにもつながります。

 

教会の異端として破壊されたグノーシス派は、

心理的事実を研究してきたもので、ミードと

言う人の「ある忘れられた信仰の断片」という

本に書かれていると、皆に勧めています。

 

ここで、この四講は終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-3

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第三講

1931211日の

セミナーです。

 

橋を渡してくれるアニムスは、

とても人間的な姿で登場して

いるので、多くの人が、

無意識と意識をつなぐ機能で、

無意識側の窓口なだけである

ということに驚く人もいるが、

一つ一つの心の部分も、実は

とても人間的なのだと理解

できたらもそれほど逸脱は

していません。

 

アニムスが、無意識の窓口の位置にいる時は、

正しい場所にいますが、違うところにいると、

アニムスのマイナス面が暴走してしまうので、

気をつける必要があります。

 

間違った位置とは、意識と無意識の間じゃなくて、

自分と他人の間にいるような場合です。

対他人への窓口には、ペルソナがいなければ

ならないのに、アニマもアニムスも、

ペルソナの正反対なので、二重人格的で

悪魔的な形で出てしまうことになります。

 

また、アニムスが、深い無意識の中に

入り込んでいくことも、本来、

無意識の窓口が役割りなので、

アニムスが意識と離れ過ぎて

しまって、やはり問題になります。

 

夢やヴィジョンで、すでに充分自覚している

内容が出て来ているとしたら、その解釈は

間違っている可能性が多い様です。

意識で欠けていることを伝えようとしている

ものだからです。

 

ヴィジョンの中で、橋になって渡しては

くれましたが、アニムスが水の中に

落ちて行っています。無意識の玄関ではなく、

中に入って見えなくなると、無意識との

仲介ができなくなりますから。

 

一人で孤独になり、彼女が困ると、

動物たちが顔を舐めてきます。

 

動物と一体…無意識とも一体状態である

ことで、完全で、ものごとがあるべき状態、

タオの状態を実現しています。

 

尖った帽子は、ミトラに由来するピレウスを

示していて、神格化され高揚した彼女自身です。

 

黄金の舟も、太陽や神を現していて、

下方は動物と一体で、上方が神という

サチュロスそのものとなっています。

 

アニムスを橋として正しい位置に機能させる

ことに成功し、橋の向こう側にも渡り、

無意識との繋がりもつけています。

 

ただ、目標を達成した瞬間にアニムスは

落ちていって…意識から遠くなったので、

2000年近く前の動物のレベルになっているが、

現実の彼女は現代に生きていて、そこのバランスを

とるために、どう戻ってくるが問題になります。

 

彼女は、キリストを充分知っていますが、

そういう知識ではなく、生きた体験として

新しい形で再構築していかねばなりません。

 

このヴィジョンのシリーズは、ここまで

で終わっていて、ここからは新しいヴィジョン

が始まっていきます。

 

新しいヴィジョン

「私は、石の祭壇の上に犠牲として

捧げられた子羊を見た」

 

ミトラの牡牛は、動物レベルだけを示しますが、

キリストの子羊は、動物と人間の両方を示して

います。

 

神と一体化した高揚を体験すると、

その代償としてバラバラに

引き裂かれる体験が待っています。

 

オリシス-イシス神話は、

神と人間の仲介者を描き、

神学者からもキリストの先取りと言われ、

また、ディオニュソスも、バラバラに

された後に、妻セメレがその心臓を

呑み込み、再びディオニュソスを生む、

復活をも、先取りしています。

また、犠牲として十字架で罰せられる

神を祈るのに、罪に満ちた自身を

受け入れねばなりませんでした。

 

三講はここで終わっています。

 

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-2

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第二講

193124日の

セミナーです。

 

前回のヴィジョンのディオニュソス的青年は、

高揚を表現して入るが、熱狂さがが伝わらず、

抽象的な感じで、情緒が欠けている感じだが、

この冷淡な感じが、アニムスによる表現の

特徴のようです。

 

外向的で無理矢理にでも前進していくやり方は、

西洋的なやり方で、アポロン的な老人は、

ターバンもして東洋的で、立って動かず、

黙想的で内向的で内側を見る感じです。

 

観察的、知的理解的に暴くような眼差しではなく、

見守るような眼差しが、花をはぐくむには大切です。

 

ファウストの中に、「目的が眼に入ると、

ユーモアを忘れて、興味を示し過ぎる人は

信用できない」という言葉があったり、

 

プエブロ・インディアンも好奇な眼で

見ると、眼をそらします。

 

メドューサの顔やバジリスクの眼のように、

見たものを萎えさせ、成長を殺してしまい

石に変えてしまうほどの力が観察に

あるのだと言っています。

 

ヴィジョンの続き

「その若者は、太古の母神の膝に崩れ落ちた」

 

母神の膝は、大地や子宮を意味し、

再び更新されて、新しく生まれ変わる

ことを表しています。

 

ここでは、土による更新が強調されていますが、

水で洗礼して更新させたり、火による更新もあり、

何故ここでは土なのかを考えることが大切なようです。

 

アニムスは妖精的で、身体がないかの如くですし、

非大地的で生命力が枯渇しています。これは、多くの

現代人に共通する問題でもあります。

 

現代的な病理の強迫神経症を例にして、

彼らは、一度起こった出来事も、儀式によって

「なかったこと」に否定してしまうので、

取り返しのつかない現実と言う、

どうしょうもなさを曖昧にしてしまいます。

 

目の前の動物を殺して食べる凄まじさから、

加工されて調理された料理という形で、

生々しさを遠ざけて、肉親の死も葬送儀式で、

あらゆる生々しさから、距離をとることで、

抽象化・観念化していくことは、現代人全体に

共通した傾向で、皆、大地や肉から離れています。

 

また、この患者のヴィジョンは映画的で、

宇宙的な冷たさもあるが、女性の特徴で、

男性なら、もっとムードや人間的ぬくもりも。

 

男性には、もっと情感(アニマ)を感じさせる

材料が出て来やすく、女性の場合は、

抽象的意見(アニムス)になりやすい。

 

男性のヴィジョンは、その中の哲学的な

意見よりも、ムードこそを分析していくべき。

 

この患者の場合、その傾向が強過ぎる。

 

ヴィジョンの続き

「若者は、母神の膝から跳んで、

下方の水中に飛び込んだ。

そこで彼はイルカのように

水面から姿を見せたり

消えたりしていた。

 

池の端まで来ると、彼は立ち上がった。

彼の髪が黄金色であることがわかった」

 

母神-大地-土-肉体に繋がります。

水の中に潜ることは、無意識の中に

戻り再生していくことを表している。

 

黄金の髪は、髪にマナが宿るし、

髪を切る夢は、分析を受けている

ということにも繋がるし、

髪の毛が敵の手に入ると、

そこから黒魔術をかけられる

危険性もあるぐらい大事で、

そこが黄金ということは輝いている。

 

母の膝、さらに池へと、下降していく

ことは、ディオニュソスで高揚し過ぎた

ものが、アポロン的なものも入って来ている

ことも示しています。

 

池に跳び込んだのは、沐浴・洗礼で浄化の

プロセスで、羊水で子宮からの再生を示します。

 

ヴィジョンの続き

「私は、彼と手をつないで、地表の裂け目まで

走って行った。そこを渡る方法を摸索して、

動物を呼んだがうまくいかず、彼が両足を

裂け目にまたがせて、自分の上を渡るようにと

言うので、従ってそうした」

 

今や、彼だけでなく、彼女自身も一緒に

走るようになりました。裂け目を跳躍する

ために、動物を呼びますが、彼はアポロン的

な要素も受け入れていて、もはや動物と

一体化することはできなくなっていました。

 

アニムス自身が、対立したものを和解させる

ようなつなぎ目になります。

 

ヴィジョンの続き

「彼女は彼に『一緒に行こう』と誘いますが、

バランスをとるのがやっとで、結局、裂け目の

そこの水の中に落ちていきます。

それで、彼女自身も怖くなり、その先の森を

進めなくなります。川の流れの傍らに、

しばらく横たわっていると、動物たちが

やってきて、彼女の顔を舐めます。彼女は、

立ち上がって、水際に歩み寄り、海馬に曳かれた

黄金の舟に乗り込むと、尖った帽子を被った

一人の女性が水中から現れて笑顔を見せた。

そして、空のいたるところにたくさんの虹がみえました」

 

ユングは、このヴィジョンを

「残念なヴィジョン」だと言います。

それは、ある出来事から次の出来事への

進展する道筋が感じられないと言います。

たとえは、黄金の舟はどこから来たのか?

 

ただの一枚の絵としか理解出来ず、

「見たら、ことはお終い」として、

内的なことに触れずに、遠ざけておこうと

していくからだと言います。

 

ただ、本当にその世界に入って行くと、

逆に記録をしたり、私に語ることも

難しくなるのだと言います。

 

こういうファンタジー的な人は、

こういうリアルな世界に入り込んで

いくのに、時間がかかるのだという

ところで、この二講を終わっています。

 

アニムスが状況を少し安全にすると、

少しだけ関われるようになりますが、

 

 

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-1

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第一講

1931121日の

セミナーです。

 

患者の心の一部で経験していく

ヴィジョンの動きや変化が、

未開人や古代の秘儀や

イニシエーションと共通した

面を発見したのと同時に、

それらが高揚した状態を

もたらすことを見て来ました。

 

過去へと降下・退行して行き、

原始、さらに動物本能のレベル

まで体験した後に、再び、

文化的なレベルで、ちょうど

紀元前67世紀ギリシャの

ディオニュソスのパン神の

世界に、ヴィジョンが来ています。

 

パンは牧神で山羊の様な格好で、

いつもニンフを追いかける

好色な姿で描かれますが、

叫び声は敵に恐怖を引き起こし、

羊や山羊の群れがコントロール不能

になるのはパンの声によるためで、

「パニック」という言葉が生まれました。

また山野の知恵や、葦笛パン・フルートなど、

音楽の神でもあります。

 

神が登場していますが、近代自我や

キリスト教の考える「神」ではなく、

 

自身を方向付けていくものとしての

原初的な神体験という「神」で、

ユダヤ人は、異国の神に憧れ続けて

来た為に、一神教という考えにいたり、

ペルシャ人は、不潔だったので清浄な

神を敬ったというような補償的な面もあります。

 

清教徒やプロテスタントは、男性原理的で、

堅く四角四面で干乾びていて、大地性・

女性原理的・酒酔を抑圧し過ぎているために、

必然的にその反対に布置される大地的で、

女性的、ワイン・葡萄・酒による狂乱を

特徴とするディオニュソスが現れて、

意識に管理された心を解放しようとします。

 

ヴィジョンの続き

「一匹のスカラベが開き、独りの男と

独りの女が現れ、池に降りて行って、

自分の姿を見詰め、男は池に潜って

指輪を見つけて上がって来て、女の

額に押し当てると、額の肉の中に

沈み込んで留まった」

 

スカラベは、卵を産み付けるために

動物の糞を転がして運び球体にしますが、

エジプトでは、天空を東から西へと

太陽を運んでいく神として崇められました。

 

全知全能の神のように、自分の心はすべて

意識だけが作り出したと考えると人は孤独で、

外界との関わりを必要としますが、自分の

心的諸内容を、客体的な存在として訓練すると、

自律的で独立した実体性をもったものとして

心的諸内容があることがわかります。

 

現代人が、心的な諸内容をすべて自分で

作り上げたものと考えてしまうのは、

世界の全てを創造した全知全能の神を

定式化したためなのです。

 

キリスト教を肯定するかどうかが、

まだ、わかっていないような

自律的なファンタジーは、

危険なものとして、たとえば

イグナティウス・デ・ロヨラの

霊操などによって意図的に

破壊してきました。

 

しかし、動かない視覚像に、

何週間も集中して凝視し続けると

それが動き出してきます。

 

自分の意識で考えた動きかどうかは

その時点ではハッキリしませんが、

不都合な動きやイメージが出てきたら、

自律的なものとハッキリしてきます。

 

そこで、「不都合なものは否定して、

やり直しても良い」ということに

していると、自律的なファンタジー

こそが破壊され続けていきます。

 

自分の内側から発生したファンタジーは、

自然現象の一部であって、あるものを

あると認めて観察しなければ、破壊の

習慣の方に戻ってしまいます。

 

ユングは、自然現象の一部なので、

どんなファンタジーでも、客体的な

事実であって、見た人の責任ではない

と強調しています。

 

責任と思うこと自体が、全能の神と

同一化してしまっていて、思い上がり

なのだと言っています。

 

殺人や、性的な欲望が出て来ても、

信念に反する動きが表現されても、

そんなものが出て来たという事実を

どう考えるかであって、

「そんなヴィジョンはなかった」

と否定してしまわないということが

自律的なファンタジーにとっては

大切なことなのです。

 

自分から自律していて客体的な存在で、

簡単に自分が同一化できないものを

経験すると世界観が変わるような体験になり、

日常とは違う高揚感を伴うようです。

 

その高揚は神秘体験とまで言えそうなもので、

それを内界のもので、外界とは違うと、

事実ではあるが、外の現実の変化とは

区別ができていないと、「急に何かが

変わった」と感じ、狂気に陥って行く

キッカケにもなってしまうものです。

 

ヴィジョンに戻ると、スカラベが

自らを更新するように、スカラベの

中に、合一した男女が入っています。

 

合一の関係性が秘儀の高揚を作り出します。

男が池の深みから指輪を見つけて来て、

女の額…クンダリーニ・ヨガでいう

アージュニャー・チャクラのある場所で、

完成・完全性・至高の意識。至高の知識を

表し、仏像にもあるブッダの第三の眼の

場所に、日常なら指にはめる指輪を

肉の中に浸透させて埋め込んでいきます。

涅槃やNirvanaと言われる高揚状態を

表します。

 

ユングは、高揚状態を得るために、

古代カルタゴや、アブラハムの頃は、

初子供養と言って、初めの子どもを

神への生贄に差し出す風習があり、

神と一体化して無意識の頃は、

その行為で高揚状態になっていたと

紹介しています。

 

自分の考え・自我ができ始めてきて、

はじめて「それは子どもを殺す行為で、

おぞましい」と感じ始め、生贄は

動物に置き換えられていったようです。

 

ヴィジョンの続き

「豹の毛皮の腰巻をつけた

美しい若者が、黄金のシンバルを

持って、犬と一緒に楽しそうに

飛び跳ねて踊っています。

 

そこに立ち止まって両手を広げ

ターバンをつけた老人がいます。

 

若者が立ち止まるとシンバルを

落としてしまいます。

 

老人が大地を見詰めると足元から、

どんどん花々が咲き始めます。

若者は倒れこんで花々に顔を

埋めます」

 

諸内容から意識があまりに遠い時は、

アニムスだけが、それらに関わっている

ような感じになります。まだ、遠いので、

彼女自身が体験するのではなく、

アニムス像が体験して見せているという

ことのようです。

 

自分の中の、好ましくない特性を

抑圧すると、それを他人に投影します。

 

気がついていないが、本当は自惚れ屋が、

謙虚に振舞うと、その願望が投影が

他の人の中の虚栄心を引き出してしまう

場合があると言っています。

 

ものごとを美化して感激ばかりする人は、

周りの誰かの俗悪さを引き出したり、

何かを怖れている人は、周りの誰かの

攻撃性を引き出してしまったりします。

 

若者は、シンバル→音楽と、

踊りや本能を表す動物と一緒に居て、

ディオニュソスの高揚を示しています

 

デルポイノ神殿を二分している

アポロンは、厳格な規則や法律を

表していて、彼女は忘我状態に

なりたいが、アポロン的な意識が

邪魔して、自身を解放しきれない。

 

ディオニュソスは、規則を破り、

陶酔して、自身のことも問題じゃない

ぐらいに我を忘れ、現実を軽視します。

 

老人の出現でシンバルを落とし、

踊りをやめています。

 

ターバンは、東洋性…東洋的無関心で、

瞑想等によって具体的な個々のことが

無視されていく傾向を示していると

言っています。

 

第一講は、この辺で終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-1-10

ヴィジョン・セミナーⅠの

秋期第一部の第十講

1930129日の

セミナーです。

 

前回の九講での「動物レベルとの合一」は、

至高体験で、あらゆる秘儀の目的でもあるし、

クンダリーニ・ヨガの目的である

シヴァとシャクティの合一でもあります。

 

今のプロテスタントでは、洗礼と言っても

無意識のままの赤ん坊の額に数滴の水を

振り掛けるだけだが、凍りつく冷たい川に、

溺れそうになるまで浸け、神秘的な体験

をしていたのです。

 

前回のヴィジョンは、時代を遡って行き、

残酷な試練や人身御供を経て、

原始的な太陽崇拝のレベルにまで

達しています。

 

動物レベルに一体化したことがない人は、

自分の中の動物レベルの存在に無自覚で、

無意識ですが、一度、自覚すると葛藤を

抱え続けますが、自覚がなく、無意識を

抑圧し過ぎて神経症に陥っている人は、

投影したものや他人の責任にして、

他罰的になったりしてしまうようです。

 

ヴィジョンの続き

「牡牛が幼子を地面から拾い上げて、

古代の女性の彫像の足元に横たわらせます。

白い牡牛に乗った裸で花の冠をつけた少女が、

その子どもを掴んで空中にほおり投げたり、

受け止めたりして、ギリシャの神殿に

連れて行って子どもを寝かせると、

屋根の穴から太陽光線が子どもの額に

当たり、そこに一つの星を刻みつけました。

それから彼女は若者に変わり、

聖なる林の中に立ちます。すると、

サテュロスが現れて、『おまえは何故、

ここにいるのか?』と聞きます。

若者は『行く所がないのです』と答えた」

 

この幼子は、彼女の中に新しく生まれた

彼女自身です。裸の少女は、古代的で

子どもを掴んで空中にほおり投げるのは、

その手中にあるという意味で危機的です。

 

子どもの額に光…光は意識的な価値です。

ここで、ユングは、プエブロ・インディアンは、

心臓で考えるが、アメリカの白人は、

「頭で考えるから、おかしくなっている」

と言った言葉を紹介しています。

また、我々も「心」という時に、

胸の当たりを手で示すことがあるとも

言っています。

 

このヴィジョン・セミナーの後のセミナーで

取り上げるクンダリーニ・ヨガでの象徴を

説明しています。ヨガでは7つチャクラを

言いますが、ここでは、非常に原初的な

意識の場所として、腸①という例をあげ、

横隔膜②はホメロス時代の人々とも言い、

心臓③と、口④と額・頭⑤の5つのセンター

という風に言っています。

口は、言葉に関連する想念とか、

⑤に関しては、インド人が蓮華の場所と

大切にしているなどとも書いています。

 

ヴィジョンに関しては、若者に変わるところを

彼女自身が「奥ゆかしさ」も含めてだが、

逃げて「アニムス任せ」にしてしまっていると

批判しています。

 

ヴィジョンの続き

「若者は、舟に乗って岸壁に向かって槍を投げます。

刺さったところから、水が滴りはじめます。舟は、

そのまま行ってしまうが、若者は岩の上に立ち、

水の中を覗き込むと女の顔が見え、飛び込んで

追いかけると、三人の魔女たちの洞窟にやってくる。

独りの魔女から、一本の歯を抜いて、洞窟から

逃げ去ろうとしたが、獰猛な獣たちに襲われて、

傷つき血を流します。一人の老人が、獣を

追い払って若者を毛皮に包み、岩の上に空を向かせて

寝かせます。炎の円が降りて来て若者の周りに

燃え上がると、若者は「私は生贄です」と言い、

胸から一羽の白い鳥が飛び出して、炎より高く

舞い上がります。そして、火は彼を燃やし尽くします」

 

サテュロスとは、山羊-人間だが、紋章になっていて、

神格化された存在を意味します。

 

アニムスが本人のその後を先取りして動くことがあり、

それを参考にして、あとで彼女自身も動かねば

ならないようです。

 

岩の上から覗いた時に、水の中に見えた女の顔は、

彼女自身を表しているようです。三人の魔女の

一本の歯を引き抜くのは、ギリシャ神話の中で、

三人の魔女が一本の歯を共有しているという話からだが、

その後、獣に傷だらけにされるのは、神話の中で

運命に対抗した場合は、獣や化け物に八つ裂きに

なるのが通例で、老賢者・呪医・動物に通じる者らを

表している老人に助けられなければ、そうなって

いたということを表しているようです。

 

ただ、逃げられず八つ裂きにされたという不名誉な

死が、自ら選んで生贄になるというように、

死乃の意味合いを変えるためでした。

 

歯を引き抜く行為は、僭越で思い上がって、

横柄で大胆な行為で、その代償のようです。

 

若者自身は焼き尽くされてしまいますが、

彼の胸から白い鳥=不死の魂が離脱して、

天に舞い上がっていきます。

 

この次のヴィジョンは、ただ炎の変容に

よって、美しい神性との合一を表している

だけなのでと省略されています。

彼が彼女の中に「入って」神に満たされる

(エンテオス)という状態になっています。

この「入る」は、ディオニュソスの特性

の一つとして、エンコルピオスと呼ばれる

腟か子宮か腹の中に入っていくという

性的な合一性にも通じる象徴のようです。

 

彼と合一したことによって、

アニムスに任せて避けてしまっていた

サテュロスとの直面をしなければならない

ということになります。

 

ヴィジョンの続き

「サテュロスが木の下で葦笛を吹き、

彼と私の間には星々の光の帯が遮って、

緑色の目しか見えなかった。

サテュロスは、両手の掌を挙げて立ち、

胸の毛を抜くと、それが炎となる。

私は、彼に話をしてくれるように

頼むと、彼は私に青い衣を着せ、

真珠の首飾りをつけてくれた。

私が彼の前らひざまづくと、彼は、

『私は過去であり、不死であり、

未来でもある。おまえに、

わたしのことを知らしめよう』と

言って、私の顔と胸に十字のシルシを

つけ、彼は色褪せて行って見えなくなった」

 

サテュロスに直面することはものすごい

勇気が必要ですが、彼女が予想した性的な

ものとは違っていた。

 

動物レベルということは、破壊的で無軌道と

理解しがちだが、無軌道なのは人間であって、

動物は法則に則って、バランスもあり、

むしろ理性的ともいえるようです。

 

彼女自身は、自分を情動の炎に苦しんでいる

と考えていますが、青いマントは天上の

マリアを表し、真珠は涙や悲しみを表していて、

戴冠もさせますが、むしろ何も起きていない

ことが重要なことのようです。

 

十講は終わり、秋期も終わって、少し

ブランクののちに1931121日から、

冬期第二部の第一講が始まります。

«ヴィジョン・セミナーⅠ-1-9

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