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2015年5月

夢分析Ⅱ-6-1

夢分析Ⅱの

夏学期(五~六月)

第六部の第一講で、

193057日の

セミナーです。

 

新学期からの参加者のために、

ハウエル氏による要約です。

 

ヨーロッパ人で、不適応や病気

ではなく、引退した47歳の

裕福な実業家で、妻と四人の子がいて、

社交的で合理主義者ですが、

 

妻との関係が親密でなく、

人生に不全感を感じています。

 

内向思考感覚型で、

知的理解に偏らせないために、

ここでの解釈の半分も

本人には聞かせていません。

 

今まで24の夢を分析して

来たが、三つに分けると、

 

彼の問題全体を示している

D1と、D2D17D17D24

三つです。

 

D1では社会慣習に縛られ、

ペルソナと一体化して影を

認識することのない彼の姿と、

妻との関係の問題と、

病弱な二歳のアニマが

表れています。

 

D2D17では、D2

アニマは二歳ではなく、

惨めな穴倉暮らしで

結核を患う針子になり、

 

D3で雛鳥が逃げますが、

大鍋に集めて統合して

自我を作りかえることを

暗示しています。

 

D5D6 D7では退行して

愛情生活でも機械的で、

自身の感情を生きていない

ようです。

 

D11で感情や責任を、

教会や聖職者である父に委ねて、

自身の判断を育てていなかった

ようです。

 

プエル・アエテルヌスが登場

しますが、まだ、彼の同一化の

能力を超えていたようです。

 

再び下降して娘との近親姦の

可能性にまで至ります。

 

正しく道徳的に生きて来た

つもりの夢見手には、許容

できないものでした。

 

D17D24で、D17では

夢見手は灼熱や疲れを回避して、

木から木へ飛び移ったりしますが、

こういうトリックや近道が捨てられ

素材にも変化が始まり、

 

D19ではキリスト教と

イスラム教の統合

というか、十字架と

三日月の統合…

つまり、男性原理と

女性原理、ロゴスとエロス

などの対立の統合へと

向かおうとします。

 

アニマは、木の下の虫に食われた

実を拾う少女になったり、

調子はずれな歌を歌うユダヤ人の

両性具有者になったりします。

 

D24で、横たわって体操したら、

子ども用ベッドが壊れて鼠が

飛び出してきます。性や多産を

表わす鼠ですが、D26では、

夢見手の妻が三つ子を産み、

助産婦を手伝っています。

 

ユングに代わり、ユングは

ここでやっと飛ばしたD25

語ります。

 

D25

「黄色で三角形をした低空飛行の

飛行機か飛行船から、男が

パラシュートで飛び降りますが、

彼の家の隣の空き地だったので

駆け付けると、もう男の右手の

関節は腫れ始めていて、夢見手が

『包帯はいらないか』と聞きますが、

男は自分の荷物の中から縛るものを

取りだして自分で何とかしようと

していた」。

 

連想として、黄色の三角形は

キリスト教会の言う三位一体だと。

右手は、実生活での有能さである

と自分で夢の意味を解釈しよう試み

始めています。

 

ユングは、鵜呑みにして信じては

いけないが、自分で分析して行こうと

いう試みを否定してはいけないと言います。

 

ユングは、彼の解釈が適確になって来た

最初の夢だと感じたと言います。

 

イメージや直感で感じられる未知のものを

表わそうとし始めています。

 

象徴が、心の中に入って動き始めると

機械が作用し始めたように働き始めるそうで、

ハインリッヒ・ツィンマーも瞑想で用いる

ヤントラのことを、機械と呼んでいるそうです。

 

象徴の名を知り、自我が認識して

いなくても、象徴は動き出せるが、

自我の統制を離れて勝手に動き出し、

その餌食になってしまうこともあるが、

正しい名を認識することで、

神々やマナのような力を

統制できることが大切なようです。

 

キリスト教は、神を操作するなんて

おこがましいと否定するかもしれないが、

人間の都合で婚礼や洗礼という形で、

神の恩寵を魔術で操作して来たのです。

 

鼠の夢で地下世界の何かが

統制を離れて逃げ出しています。

 

彼は、飛行機のように上空から

三位一体という意識的な識別力によって、

直接現実に触れておらずに眺めて

判断をしてきたと言います。

 

エジプトのホルスのマンダラを

示して、動物的な三つに

人間的な四つ目の機能が

加わることで、もっと全体になる

と言います。

 

四つ目は、大地的な性的要素で

あったり、神に自己主張した

プロメテウスのような態度であったり、

ルシファーやデーモンで、

それによって人間は自身を

客観視できるようになり、

意識が増大するのだと

語っています。

夢分析Ⅱ-5-10

夢分析Ⅱの

春学期(13)

第五部の第九講で、

1930326日の

セミナーです。

 

前回の夢で、鼠が逃げ込んだのは

息子たちの部屋でしたが、

夜や闇と関係し、多産の象徴である

鼠はエロス的願望を表わしています。

 

以前の夢では、娘に向きそうな夢で、

その解釈に、夢見手はかなりショックを

受けたそうで、今回、息子に向かった

ようです。

 

近親姦的同性愛となりますが、

息子への自己同一化や、

息子へのセンチメンタルな愛ですが、

これは後に、息子が父の罪を受け継ぎ、

罪を償わなければならなくなるそうです。

 

前回の夢は24ですが、25を飛ばして

26の夢を紹介しています。

 

26

「彼の妻が三つ子を産んで、

はじめの二人が死産で、

三人目だけが無事に生まれた。

同じ晩に繰り返し見たが

その他の細かいことは覚えていない。

助産婦もいたが、死産した二人の

赤ん坊を運び去ったことを覚えている」

 

連想…三人は多過ぎて、三人目さえ

助かれば充分に感じると。

はじめの二人は、心霊術やヨーガで、

三人目がユングとの心理療法で、

助産婦もユングを連想したという。

 

また、妻は冷感症だと思い込んでいたが、

この夢で多産性もあり、強烈な関心も

あるが抑圧も強かったということだった。

 

家族のように一緒に生活をしていると、

無意識はお互い混ざり合って行くと

ユングは強調します。

 

一人暮らしの人の場合、アパートの

隣の人の影響も入り込んで来るそうです。

 

ユングの女性患者で、実際の匂いではなく、

蛇や腐肉のイメージを放つ患者の後、

窓を全開にして空気も入れ替えたりしたのに、

直感の強い女性患者が、蛇のような匂いを

口にしたりしたという例を出しています。

 

また、意識でちゃんとつながった夫婦ほど、

無意識では隔たっていて、

意識で繋がっていないほど、

無意識での相互浸透が大きいそうです。

夢分析Ⅱ-5-9

夢分析Ⅱの

春学期(13)

第五部の第九講で、

1930319日の

セミナーです。

 

元型の数って数えられるのか?

という質問が出てユングが

答えています。

 

元型と元型の境界や、区別は

かなり曖昧で、それによって

数え方も、幾つかと言う答えも

違って来ると前置きして、

 

でも、たとえば、「大鍋」

という元型と、「英雄」という

元型は、融合してしまう

訳ではなく、別の元型ではある

と説明しますが、この二つは、

ペアで登場しやすいそうです。

 

「英雄」は、洞窟や地下や

鯨の腹の中に入っていく…

この「大鍋」は、中に取り込んで、

その中の物を巻き込み、展開させる

性質があるが、ここまで抽象化した

言い方だと、命が失われて、

ただの抽象概念になってしまいます。

 

巻き込み展開される機能と言うより、

その中で更新したり、再生するという

言い方の方が、まだ動きが残ります。

 

抽象語になると記号のように

意味が無味無臭になって、

一番大事なところが蒸発してしまいます。

 

それよりも具体的で絵画的な表現の方が、

たとえば、アニマなら、人格として

語ることが、生き生きと動き出すのだと

言います。

 

この数え方の一つの例として、

預言者という元型と、

魔術師という元型は、

似ている面も大きく、

同じ一つの元型と考えた方が、

心の動きを把握しやすい時もあるが、

 

ある人の夢のシリーズの中では、

別々な元型と考えた方が良い場合も

あるんだと言っています。

 

夢の中の鼠に戻ります。

小さく取るに足りないもので、

本能的な厄介なもの。

 

鼠が逃げても彼は些細なと、

彼の妻は見方が違う。

 

些細なことというのは、

ユングは「無意識からの

価値下げによってじゃないか」

と言います。

 

鼠は小さなドラゴンで、

夜に出てきやすく、

夜に秘められた本能で、

性欲と関係あると言っています。

夢分析Ⅱ-5-8

夢分析Ⅱの

春学期(13)

第五部の第八講で、

1930312日の

セミナーです。

 

参加者たちに、夢の旋律や

対位法を織りなす様子を、

図表にする宿題をだしていて、

それについてコルントしている。

 

元型モチーフの素材は、

途方もなく多様で、

その境界には曖昧さもあり、

その単位をどう区切って、

識別するかは難しい。

 

たとえば、家・小屋・洞窟・

寺院などは、違いもあるが、

共通点もあります。

 

また、そういう幾つかの

元型のテーマが、じょじょに

少しづつ違う元型の組み合わせに

移って行くということもあります。

 

はじめは断片なのに、

じょじょに幾つかの元型の

組み合わせに姿を表わす

ということもあります。

 

思考タイプの人の表と、

感情タイプや感覚タイプの

人の表は違うし、

 

出て来たものだけを

分類する人と、創造を加えないと

辿り着けない図もあります。

 

ただ、無意識を抽象化し過ぎると

科学的意味しか持たず、生きた

象徴性を殺してしまうことが

あります。

 

木の象徴を抽象して行くと

成長という意味になるかもしれませんが、

そこまで抽象してしまうと、

どの象徴も同じになってしまいやすく、

生きた象徴を表わすためには

具体性が必要なのです。

 

夢見手の意識や連想だけから

近づこうとしても、普通でない

ニュアンスを感じても、

それを言わない場合も多い

のです。性的なニュアンスが

あっても、連想でチラッと

話すだけで、そこをキャッチ

する視点がないと捕まえられない

ことも多いのです。

 

この夢に戻って考えると、

作動しそうな機械のどこかに

大きな障害があり、それは

伝統的なキリスト教とも

関連しています。

 

知的にはいろいろなこともわかる人だが、

宗教的な感情としては、子どものままで、

彼の無意識は発達しているのに、

そこで受けきれないものが溜まって、

溜まったものは人格化されて、

名前のつけられるものになります。

 

ここでは、ユダヤ人として、

彼の昔の教会で植えつけられた

反ユダヤ主義や、マイリングの

「ゴーレム」のイメージも、

 

ただ、彼がショックを受けて

しまわないために、受け取り

やすい部分だけしか伝えない

ということをユングは強調

しています。

 

「真実は害にならない」と

考えがちであるが、夢見手が

気づくことができれば、

どんなに有益だったとしても、

時機やタイミングが違うと、

良い結果にはならないということを

強調し、こちらにわかったことと、

それを夢見手にどこまで伝えるかは、

タイミングが大切だとユングは、

強調しています。

 

24

「彼は高い囲いのついた

ベビー・ベッドで体操をしていた。

その隣では、彼の妻が床の

マットレスに横たわり、

彼の妙技を見ていた。

 

激しく体操し過ぎて、

ベビー・ベッドがバラバラになり、

彼が捕まっていた側面が、

一面だけ残る。

 

その時に、彼はベッドの下から

鼠が飛び出すのを見た。

彼は、手にしていた鉄の

側面で鼠を打ちつけようと

したが、鼠は開いたドアから、

隣の部屋に逃げ込む。

 

普段、子供らが寝ている部屋だが、

今実際にそこに子ども達がいるか

どうかがわからないので、

彼は、ことをさほど深刻にとらず、

鼠が入っても構わないと考える。

 

しかし、妻に話すと、妻は子ども達を

心配して棒を持って隣の部屋に急いだ」

という夢です。

 

体操は、毎朝、血の巡りが良くなって

気分が改善される為に体操をしている

ことを話したそうです。

 

しかし体操は知的活動かもしれない

と言い、知的活動が妻の

「性への恐怖心」を和らげる

のではないかと…鼠のこととの

混同もしています。

 

夢の中では妻は

見ていただけなのに、

妻も体操していたとか、

妻と自分を混同して

混乱していたと、

ユングは言います。

 

鼠は、多くの女性が

「性への恐怖心」に

陥れる面があると言います。

 

また、鼠が子ども達の

部屋に入ったのは、

「性への恐怖心」が、

子ども達に転移して、

子ども達を傷つけるのかも

知れないとも言います。

 

彼は、ベビー・ベッドで、

落ちないように高い囲いで

守られなきゃならないぐらい、

宗教的なレベルでは幼児なのだと

言います。

教会や因習に守られていると。

 

しかし、知的活動…つまり、

以前の神智学や、ユングによる分析で、

その囲いが遂に壊れる段階に来ています。

 

しかし、鼠が現れて妻を恐怖に

陥れています。妻は床のマットレスから

彼を見上げており、いかに居心地が

悪いかを示しています。

 

彼が自分と妻を混同しているのは、

神秘的融即だと言います。

 

また、鼠は耳障りな厄介者で、

抑圧された本能を表している

と言います。

 

そこでこの回は終わっています。

夢分析Ⅱ-5-7

夢分析Ⅱの

春学期(13)

第五部の第七講で、

193035日の

セミナーです。

 

何故、夢見手自身に

話さないかについて

ユングが補足しています。

 

今や猥褻な話をしても、

憤慨をかわないが、

宗教的な話は、もっとも

人々の憤慨をかってしまう

からだと言います。

 

それはキリスト教の

教義が確立して

無意識から明確に

自我が確立した後の

西欧人にとってが、

もっとも微妙で、

難しい話になるのです。

 

西欧以外の世界中や、

~三千円前のギリシャ

でなら、誰も憤慨する

というようなことは

なかったと言います。

 

神やデーモン(神の影)も、

近代の絶対的・普遍的で

全知全能の神が成立して、

デーモンも悪そのものに

なったのであって、

 

絶対でない地域や時代では、

もっと神も悪魔も相対的な

存在に過ぎなかったのです。

 

心に強い印象を与える何かで、

「マナ」やアニマ・アニムス的な、

魂的なものを、神と呼んだり、

悪魔と呼んだりしていた

のだと言います。

 

ギリシャの神々は、

スキャンダラスでみだらで、

善悪という観念は、まったく

何の関係もありません。

 

夢見手には、「あたなは、

普遍的なものしか信じようと

していないようだけど、

この夢は、個体的な価値を

示しているようですよ」

ぐらいを伝えるそうです。

 

あまり神だとか、自分自身を

凌駕する力が自分の心の中に

生じるとかと言ってしまうと、

脅えてしまって、自分の力で

前に進もうとしなくなると

心配しています。

 

神学者がユングを…神を冒瀆して

操作しようとしていると非難して

来るそうですが、ユングは、

 

天文学者が天体の動きを

観察するように、その動きを

把握するだけで、軌道を変えたり

操作する力がないように、

 

心理学者も、自律的に動く力の

動きを観察し把握するだけで、

星の軌道を変えられないのと

同様に、心の軌道を操作する

ような力はなく、神学者の方が

よほど勝手に解釈して閉じ込めようと

していると批判しています。

 

混乱し意識が弱まった時に、

マナや内なる声が入り込んで

来て、憑依することがあると

言います。

 

善とか悪という概念が、

人間が恣意的に作ったものに

過ぎないし、自我にとっての

損とか得も浅いレベルのことで

「全財産を貧しい人に分けろ」

という内なる声が聞こえることも

あり、自我にとっては脅威です。

 

しかし、本当は目に入っていて

無意識では知っているのに、

意識は何かを気にしていたために、

気づいていない危険を勘や

胸騒ぎが知らせてくれるという

ことも大いにあるのです。

 

夢見手は、はじめ、どこにも

出口がないことに気づいて、

それを解決するには、ユング先生の

権威に頼るしかないと思って、

分析を始めました。

 

ユングは「私には解決できないが、

無意識を分析して行けば答えが

見つかるかもしれません」と言って

引き受けました。

 

ユングは「そのうち心の内部で、

かつ意識以外の何かが動き出す

のを待つしかないと思っています。

 

神と言っても守護霊と言っても

良い何かです。

 

原始的な頃は、それを自然に

投影して、動物や木と対話して

独りでも独りでないような

豊かな人生が送れたのです。

 

何故、神の化身がユダヤ人なのか。

西欧人は、旧約聖書を学び、

ヘブライ語の名を子どもにつけ、

深層にユダヤ教があるからだと

言います。

 

旧約聖書やユダヤ教の本質は

何かというと、「法」だと言います。

 

ユングやセミナーに参加している

ような人たちは、盗みや殺人を

犯したりすることはないので、

本来は「法」は必要ないが、

残りの半分の人たちには、

「法」や警察という拘束が

必要なのだと言います。

 

「法」の必要のない人間には、

本来、もっと自由が必要なのだ

とも言います。

 

この人物と、それを批判する

夢見手の友人でもある息子も

登場していますが、息子は、

「法」を尊重し、周りとの

調和を大切に考えていますが、

皆と違っても「内なる声」の

ヌミノース(宗教的感動)こそが、

人生に必要とする考えは、

どうしても対立してしまうのです。

 

夢見手自身がこのことに

気づくのは、この後2年も

かかったと言っています。

 

その説明の中で、ユングは

テラペウタイ派という集団が

あったという話をしています。

 

ユングは、それ以上は言って

いませんが、イエス・キリストが、

その流れの中から出て来て、

分派したと言っているので、

ユダヤ教の一派かもしれません。

 

テラペウタイ派を調べて見ると、

その数世紀以前に始まり、

インドのアショカ王が広めようと

していた仏教のサンガという

修行集団の一部がパレスチナに

いたのではという仮説もある

そうですし、キリスト教史から

見ると修道院の原型とも考えられて

いるそうです。

 

また、このテラペウタイ派

という名前が、のちに

「セラピー」という言葉の

語源にもなったそうです。

 

とにかく、このテラペウタイ派

の教団は、ともに居住して、

黙想や瞑想…夢解釈も行うような

集団だったそうです。

 

洗礼者ヨハネも、テラペウタイ派

の一人で、イエス・キリストが、

ヨハネに洗礼を受けているので、

修行時代のイエスの師がヨハネ

だったという説もあるそうです。

 

ヨハネは、奥義は仲間だけの秘密

としていたのですが、それを多くの

人たちにも広めるべきとして、

イエスが広めてしまい、ヨハネや

その他のテラペウタイ派の人たちから

イエスは裏切り者と呼ばれ、

そういう宗教的トラブルから、

処刑される運命になったとユングが

語っています。

 

「ユングが語っています」としか

書けないのは、この説がキリスト教の

中でも、公認の話なのか、非常に

独創的な異端の説なのかが、

僕にはよくわからないので、

とりあえず「ユングはそう言った」

としか言えません。

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