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2015年10月

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-2

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第二講

193124日の

セミナーです。

 

前回のヴィジョンのディオニュソス的青年は、

高揚を表現して入るが、熱狂さがが伝わらず、

抽象的な感じで、情緒が欠けている感じだが、

この冷淡な感じが、アニムスによる表現の

特徴のようです。

 

外向的で無理矢理にでも前進していくやり方は、

西洋的なやり方で、アポロン的な老人は、

ターバンもして東洋的で、立って動かず、

黙想的で内向的で内側を見る感じです。

 

観察的、知的理解的に暴くような眼差しではなく、

見守るような眼差しが、花をはぐくむには大切です。

 

ファウストの中に、「目的が眼に入ると、

ユーモアを忘れて、興味を示し過ぎる人は

信用できない」という言葉があったり、

 

プエブロ・インディアンも好奇な眼で

見ると、眼をそらします。

 

メドューサの顔やバジリスクの眼のように、

見たものを萎えさせ、成長を殺してしまい

石に変えてしまうほどの力が観察に

あるのだと言っています。

 

ヴィジョンの続き

「その若者は、太古の母神の膝に崩れ落ちた」

 

母神の膝は、大地や子宮を意味し、

再び更新されて、新しく生まれ変わる

ことを表しています。

 

ここでは、土による更新が強調されていますが、

水で洗礼して更新させたり、火による更新もあり、

何故ここでは土なのかを考えることが大切なようです。

 

アニムスは妖精的で、身体がないかの如くですし、

非大地的で生命力が枯渇しています。これは、多くの

現代人に共通する問題でもあります。

 

現代的な病理の強迫神経症を例にして、

彼らは、一度起こった出来事も、儀式によって

「なかったこと」に否定してしまうので、

取り返しのつかない現実と言う、

どうしょうもなさを曖昧にしてしまいます。

 

目の前の動物を殺して食べる凄まじさから、

加工されて調理された料理という形で、

生々しさを遠ざけて、肉親の死も葬送儀式で、

あらゆる生々しさから、距離をとることで、

抽象化・観念化していくことは、現代人全体に

共通した傾向で、皆、大地や肉から離れています。

 

また、この患者のヴィジョンは映画的で、

宇宙的な冷たさもあるが、女性の特徴で、

男性なら、もっとムードや人間的ぬくもりも。

 

男性には、もっと情感(アニマ)を感じさせる

材料が出て来やすく、女性の場合は、

抽象的意見(アニムス)になりやすい。

 

男性のヴィジョンは、その中の哲学的な

意見よりも、ムードこそを分析していくべき。

 

この患者の場合、その傾向が強過ぎる。

 

ヴィジョンの続き

「若者は、母神の膝から跳んで、

下方の水中に飛び込んだ。

そこで彼はイルカのように

水面から姿を見せたり

消えたりしていた。

 

池の端まで来ると、彼は立ち上がった。

彼の髪が黄金色であることがわかった」

 

母神-大地-土-肉体に繋がります。

水の中に潜ることは、無意識の中に

戻り再生していくことを表している。

 

黄金の髪は、髪にマナが宿るし、

髪を切る夢は、分析を受けている

ということにも繋がるし、

髪の毛が敵の手に入ると、

そこから黒魔術をかけられる

危険性もあるぐらい大事で、

そこが黄金ということは輝いている。

 

母の膝、さらに池へと、下降していく

ことは、ディオニュソスで高揚し過ぎた

ものが、アポロン的なものも入って来ている

ことも示しています。

 

池に跳び込んだのは、沐浴・洗礼で浄化の

プロセスで、羊水で子宮からの再生を示します。

 

ヴィジョンの続き

「私は、彼と手をつないで、地表の裂け目まで

走って行った。そこを渡る方法を摸索して、

動物を呼んだがうまくいかず、彼が両足を

裂け目にまたがせて、自分の上を渡るようにと

言うので、従ってそうした」

 

今や、彼だけでなく、彼女自身も一緒に

走るようになりました。裂け目を跳躍する

ために、動物を呼びますが、彼はアポロン的

な要素も受け入れていて、もはや動物と

一体化することはできなくなっていました。

 

アニムス自身が、対立したものを和解させる

ようなつなぎ目になります。

 

ヴィジョンの続き

「彼女は彼に『一緒に行こう』と誘いますが、

バランスをとるのがやっとで、結局、裂け目の

そこの水の中に落ちていきます。

それで、彼女自身も怖くなり、その先の森を

進めなくなります。川の流れの傍らに、

しばらく横たわっていると、動物たちが

やってきて、彼女の顔を舐めます。彼女は、

立ち上がって、水際に歩み寄り、海馬に曳かれた

黄金の舟に乗り込むと、尖った帽子を被った

一人の女性が水中から現れて笑顔を見せた。

そして、空のいたるところにたくさんの虹がみえました」

 

ユングは、このヴィジョンを

「残念なヴィジョン」だと言います。

それは、ある出来事から次の出来事への

進展する道筋が感じられないと言います。

たとえは、黄金の舟はどこから来たのか?

 

ただの一枚の絵としか理解出来ず、

「見たら、ことはお終い」として、

内的なことに触れずに、遠ざけておこうと

していくからだと言います。

 

ただ、本当にその世界に入って行くと、

逆に記録をしたり、私に語ることも

難しくなるのだと言います。

 

こういうファンタジー的な人は、

こういうリアルな世界に入り込んで

いくのに、時間がかかるのだという

ところで、この二講を終わっています。

 

アニムスが状況を少し安全にすると、

少しだけ関われるようになりますが、

 

 

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-1

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第一講

1931121日の

セミナーです。

 

患者の心の一部で経験していく

ヴィジョンの動きや変化が、

未開人や古代の秘儀や

イニシエーションと共通した

面を発見したのと同時に、

それらが高揚した状態を

もたらすことを見て来ました。

 

過去へと降下・退行して行き、

原始、さらに動物本能のレベル

まで体験した後に、再び、

文化的なレベルで、ちょうど

紀元前67世紀ギリシャの

ディオニュソスのパン神の

世界に、ヴィジョンが来ています。

 

パンは牧神で山羊の様な格好で、

いつもニンフを追いかける

好色な姿で描かれますが、

叫び声は敵に恐怖を引き起こし、

羊や山羊の群れがコントロール不能

になるのはパンの声によるためで、

「パニック」という言葉が生まれました。

また山野の知恵や、葦笛パン・フルートなど、

音楽の神でもあります。

 

神が登場していますが、近代自我や

キリスト教の考える「神」ではなく、

 

自身を方向付けていくものとしての

原初的な神体験という「神」で、

ユダヤ人は、異国の神に憧れ続けて

来た為に、一神教という考えにいたり、

ペルシャ人は、不潔だったので清浄な

神を敬ったというような補償的な面もあります。

 

清教徒やプロテスタントは、男性原理的で、

堅く四角四面で干乾びていて、大地性・

女性原理的・酒酔を抑圧し過ぎているために、

必然的にその反対に布置される大地的で、

女性的、ワイン・葡萄・酒による狂乱を

特徴とするディオニュソスが現れて、

意識に管理された心を解放しようとします。

 

ヴィジョンの続き

「一匹のスカラベが開き、独りの男と

独りの女が現れ、池に降りて行って、

自分の姿を見詰め、男は池に潜って

指輪を見つけて上がって来て、女の

額に押し当てると、額の肉の中に

沈み込んで留まった」

 

スカラベは、卵を産み付けるために

動物の糞を転がして運び球体にしますが、

エジプトでは、天空を東から西へと

太陽を運んでいく神として崇められました。

 

全知全能の神のように、自分の心はすべて

意識だけが作り出したと考えると人は孤独で、

外界との関わりを必要としますが、自分の

心的諸内容を、客体的な存在として訓練すると、

自律的で独立した実体性をもったものとして

心的諸内容があることがわかります。

 

現代人が、心的な諸内容をすべて自分で

作り上げたものと考えてしまうのは、

世界の全てを創造した全知全能の神を

定式化したためなのです。

 

キリスト教を肯定するかどうかが、

まだ、わかっていないような

自律的なファンタジーは、

危険なものとして、たとえば

イグナティウス・デ・ロヨラの

霊操などによって意図的に

破壊してきました。

 

しかし、動かない視覚像に、

何週間も集中して凝視し続けると

それが動き出してきます。

 

自分の意識で考えた動きかどうかは

その時点ではハッキリしませんが、

不都合な動きやイメージが出てきたら、

自律的なものとハッキリしてきます。

 

そこで、「不都合なものは否定して、

やり直しても良い」ということに

していると、自律的なファンタジー

こそが破壊され続けていきます。

 

自分の内側から発生したファンタジーは、

自然現象の一部であって、あるものを

あると認めて観察しなければ、破壊の

習慣の方に戻ってしまいます。

 

ユングは、自然現象の一部なので、

どんなファンタジーでも、客体的な

事実であって、見た人の責任ではない

と強調しています。

 

責任と思うこと自体が、全能の神と

同一化してしまっていて、思い上がり

なのだと言っています。

 

殺人や、性的な欲望が出て来ても、

信念に反する動きが表現されても、

そんなものが出て来たという事実を

どう考えるかであって、

「そんなヴィジョンはなかった」

と否定してしまわないということが

自律的なファンタジーにとっては

大切なことなのです。

 

自分から自律していて客体的な存在で、

簡単に自分が同一化できないものを

経験すると世界観が変わるような体験になり、

日常とは違う高揚感を伴うようです。

 

その高揚は神秘体験とまで言えそうなもので、

それを内界のもので、外界とは違うと、

事実ではあるが、外の現実の変化とは

区別ができていないと、「急に何かが

変わった」と感じ、狂気に陥って行く

キッカケにもなってしまうものです。

 

ヴィジョンに戻ると、スカラベが

自らを更新するように、スカラベの

中に、合一した男女が入っています。

 

合一の関係性が秘儀の高揚を作り出します。

男が池の深みから指輪を見つけて来て、

女の額…クンダリーニ・ヨガでいう

アージュニャー・チャクラのある場所で、

完成・完全性・至高の意識。至高の知識を

表し、仏像にもあるブッダの第三の眼の

場所に、日常なら指にはめる指輪を

肉の中に浸透させて埋め込んでいきます。

涅槃やNirvanaと言われる高揚状態を

表します。

 

ユングは、高揚状態を得るために、

古代カルタゴや、アブラハムの頃は、

初子供養と言って、初めの子どもを

神への生贄に差し出す風習があり、

神と一体化して無意識の頃は、

その行為で高揚状態になっていたと

紹介しています。

 

自分の考え・自我ができ始めてきて、

はじめて「それは子どもを殺す行為で、

おぞましい」と感じ始め、生贄は

動物に置き換えられていったようです。

 

ヴィジョンの続き

「豹の毛皮の腰巻をつけた

美しい若者が、黄金のシンバルを

持って、犬と一緒に楽しそうに

飛び跳ねて踊っています。

 

そこに立ち止まって両手を広げ

ターバンをつけた老人がいます。

 

若者が立ち止まるとシンバルを

落としてしまいます。

 

老人が大地を見詰めると足元から、

どんどん花々が咲き始めます。

若者は倒れこんで花々に顔を

埋めます」

 

諸内容から意識があまりに遠い時は、

アニムスだけが、それらに関わっている

ような感じになります。まだ、遠いので、

彼女自身が体験するのではなく、

アニムス像が体験して見せているという

ことのようです。

 

自分の中の、好ましくない特性を

抑圧すると、それを他人に投影します。

 

気がついていないが、本当は自惚れ屋が、

謙虚に振舞うと、その願望が投影が

他の人の中の虚栄心を引き出してしまう

場合があると言っています。

 

ものごとを美化して感激ばかりする人は、

周りの誰かの俗悪さを引き出したり、

何かを怖れている人は、周りの誰かの

攻撃性を引き出してしまったりします。

 

若者は、シンバル→音楽と、

踊りや本能を表す動物と一緒に居て、

ディオニュソスの高揚を示しています

 

デルポイノ神殿を二分している

アポロンは、厳格な規則や法律を

表していて、彼女は忘我状態に

なりたいが、アポロン的な意識が

邪魔して、自身を解放しきれない。

 

ディオニュソスは、規則を破り、

陶酔して、自身のことも問題じゃない

ぐらいに我を忘れ、現実を軽視します。

 

老人の出現でシンバルを落とし、

踊りをやめています。

 

ターバンは、東洋性…東洋的無関心で、

瞑想等によって具体的な個々のことが

無視されていく傾向を示していると

言っています。

 

第一講は、この辺で終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-1-10

ヴィジョン・セミナーⅠの

秋期第一部の第十講

1930129日の

セミナーです。

 

前回の九講での「動物レベルとの合一」は、

至高体験で、あらゆる秘儀の目的でもあるし、

クンダリーニ・ヨガの目的である

シヴァとシャクティの合一でもあります。

 

今のプロテスタントでは、洗礼と言っても

無意識のままの赤ん坊の額に数滴の水を

振り掛けるだけだが、凍りつく冷たい川に、

溺れそうになるまで浸け、神秘的な体験

をしていたのです。

 

前回のヴィジョンは、時代を遡って行き、

残酷な試練や人身御供を経て、

原始的な太陽崇拝のレベルにまで

達しています。

 

動物レベルに一体化したことがない人は、

自分の中の動物レベルの存在に無自覚で、

無意識ですが、一度、自覚すると葛藤を

抱え続けますが、自覚がなく、無意識を

抑圧し過ぎて神経症に陥っている人は、

投影したものや他人の責任にして、

他罰的になったりしてしまうようです。

 

ヴィジョンの続き

「牡牛が幼子を地面から拾い上げて、

古代の女性の彫像の足元に横たわらせます。

白い牡牛に乗った裸で花の冠をつけた少女が、

その子どもを掴んで空中にほおり投げたり、

受け止めたりして、ギリシャの神殿に

連れて行って子どもを寝かせると、

屋根の穴から太陽光線が子どもの額に

当たり、そこに一つの星を刻みつけました。

それから彼女は若者に変わり、

聖なる林の中に立ちます。すると、

サテュロスが現れて、『おまえは何故、

ここにいるのか?』と聞きます。

若者は『行く所がないのです』と答えた」

 

この幼子は、彼女の中に新しく生まれた

彼女自身です。裸の少女は、古代的で

子どもを掴んで空中にほおり投げるのは、

その手中にあるという意味で危機的です。

 

子どもの額に光…光は意識的な価値です。

ここで、ユングは、プエブロ・インディアンは、

心臓で考えるが、アメリカの白人は、

「頭で考えるから、おかしくなっている」

と言った言葉を紹介しています。

また、我々も「心」という時に、

胸の当たりを手で示すことがあるとも

言っています。

 

このヴィジョン・セミナーの後のセミナーで

取り上げるクンダリーニ・ヨガでの象徴を

説明しています。ヨガでは7つチャクラを

言いますが、ここでは、非常に原初的な

意識の場所として、腸①という例をあげ、

横隔膜②はホメロス時代の人々とも言い、

心臓③と、口④と額・頭⑤の5つのセンター

という風に言っています。

口は、言葉に関連する想念とか、

⑤に関しては、インド人が蓮華の場所と

大切にしているなどとも書いています。

 

ヴィジョンに関しては、若者に変わるところを

彼女自身が「奥ゆかしさ」も含めてだが、

逃げて「アニムス任せ」にしてしまっていると

批判しています。

 

ヴィジョンの続き

「若者は、舟に乗って岸壁に向かって槍を投げます。

刺さったところから、水が滴りはじめます。舟は、

そのまま行ってしまうが、若者は岩の上に立ち、

水の中を覗き込むと女の顔が見え、飛び込んで

追いかけると、三人の魔女たちの洞窟にやってくる。

独りの魔女から、一本の歯を抜いて、洞窟から

逃げ去ろうとしたが、獰猛な獣たちに襲われて、

傷つき血を流します。一人の老人が、獣を

追い払って若者を毛皮に包み、岩の上に空を向かせて

寝かせます。炎の円が降りて来て若者の周りに

燃え上がると、若者は「私は生贄です」と言い、

胸から一羽の白い鳥が飛び出して、炎より高く

舞い上がります。そして、火は彼を燃やし尽くします」

 

サテュロスとは、山羊-人間だが、紋章になっていて、

神格化された存在を意味します。

 

アニムスが本人のその後を先取りして動くことがあり、

それを参考にして、あとで彼女自身も動かねば

ならないようです。

 

岩の上から覗いた時に、水の中に見えた女の顔は、

彼女自身を表しているようです。三人の魔女の

一本の歯を引き抜くのは、ギリシャ神話の中で、

三人の魔女が一本の歯を共有しているという話からだが、

その後、獣に傷だらけにされるのは、神話の中で

運命に対抗した場合は、獣や化け物に八つ裂きに

なるのが通例で、老賢者・呪医・動物に通じる者らを

表している老人に助けられなければ、そうなって

いたということを表しているようです。

 

ただ、逃げられず八つ裂きにされたという不名誉な

死が、自ら選んで生贄になるというように、

死乃の意味合いを変えるためでした。

 

歯を引き抜く行為は、僭越で思い上がって、

横柄で大胆な行為で、その代償のようです。

 

若者自身は焼き尽くされてしまいますが、

彼の胸から白い鳥=不死の魂が離脱して、

天に舞い上がっていきます。

 

この次のヴィジョンは、ただ炎の変容に

よって、美しい神性との合一を表している

だけなのでと省略されています。

彼が彼女の中に「入って」神に満たされる

(エンテオス)という状態になっています。

この「入る」は、ディオニュソスの特性

の一つとして、エンコルピオスと呼ばれる

腟か子宮か腹の中に入っていくという

性的な合一性にも通じる象徴のようです。

 

彼と合一したことによって、

アニムスに任せて避けてしまっていた

サテュロスとの直面をしなければならない

ということになります。

 

ヴィジョンの続き

「サテュロスが木の下で葦笛を吹き、

彼と私の間には星々の光の帯が遮って、

緑色の目しか見えなかった。

サテュロスは、両手の掌を挙げて立ち、

胸の毛を抜くと、それが炎となる。

私は、彼に話をしてくれるように

頼むと、彼は私に青い衣を着せ、

真珠の首飾りをつけてくれた。

私が彼の前らひざまづくと、彼は、

『私は過去であり、不死であり、

未来でもある。おまえに、

わたしのことを知らしめよう』と

言って、私の顔と胸に十字のシルシを

つけ、彼は色褪せて行って見えなくなった」

 

サテュロスに直面することはものすごい

勇気が必要ですが、彼女が予想した性的な

ものとは違っていた。

 

動物レベルということは、破壊的で無軌道と

理解しがちだが、無軌道なのは人間であって、

動物は法則に則って、バランスもあり、

むしろ理性的ともいえるようです。

 

彼女自身は、自分を情動の炎に苦しんでいる

と考えていますが、青いマントは天上の

マリアを表し、真珠は涙や悲しみを表していて、

戴冠もさせますが、むしろ何も起きていない

ことが重要なことのようです。

 

十講は終わり、秋期も終わって、少し

ブランクののちに1931121日から、

冬期第二部の第一講が始まります。

ヴィジョン・セミナーⅠ-1-9

ヴィジョン・セミナーⅠの

秋期第一部の第九講

1930128日の

セミナーです。

 

鳥が卵を手に入れるために

急降下をする時には黒くなり、

天にいる時は白い状態ですが、

卵は新しいものが生まれてくる

妊娠のような始まりを示しています。

 

次のヴィジョンが、

彫像のような青い衣の女性の掌の

小麦の種を鳥がついばみます。

 

卵と種で、同じようなことが

反復して表現されています。

先取りや予感も象徴されています。

 

小麦からは、デーメーテールや、

イシス、母性、子宮、大地、血、

一族、民族などが象徴されています。

 

ヴィジョンの続き

「馬が、牡羊に変わり、牡牛に変わった」

 

動物的なリビドーを示しているのと同時に、

白羊宮から金牛宮で、春を象徴しています。

これも新しく萌える、さらなる豊饒性を示します。

 

ヴィジョンの続き

「牡牛の背に、あのインディアンが乗り、

インディアンの導きに牡牛が従い、

ゆっくりと高い丘を登って、ついに

岩で出来た頂上に立ち、その下で

多くの人々が嘆願するように手を挙げていた」

 

アニムスは、リビドーを頂上に導いています。

聖書の一場面の、モーゼがシナイ山の山頂に

至り、人々がそれを讃えた場面と似ています。

 

自然全体や、すべての神の被造物が、

新しい啓示を期待しているという

聖パウロのアポカタスタンスの一節とも

類似しています。

 

ここでユングの統合失調症だった少女の

例をあげて、月の世界に行って月の

救世主になっていたが、ユングに

その話をしているうちに、月と行き来

するための糸を切ってしまって、

ユングを「殺したい」ほど恨んだそうです。

 

秘密を漏らした為に糸が切れてしまい、

大地に戻って、正気でいなきゃいけなく

なって治ってしまったが、月での生活の

方が素晴らしかったと責めて来たようです。

 

ヴィジョンの続き

「インディアンと牡牛は、流れの速い渓流に

かけられた高い橋を渡り、渡った先から、

左の森の方に入って行った。

インディアンは、泉の水を飲むために

立ち止まった。インディアンが、

私の顔のベールをあげて、

しばらく見詰め合った後、泉の水を

私にもくれた」

 

さっきのヴィジョンの段階では、

私たちの患者は、岩の下で懇願する

中の一人でしたが、泉の水を飲む

シーンから、ヴィジョンの登場人物に

入っていくようになっています。

 

インディアンとともに進む牡牛は、

ミトラ教の象徴でもあって、

それらが橋を渡る…「橋を渡る」

ことは、今までの状態から、

別の状態に移行していくことを

示しています。

 

渡ったところで「左側の森」に

入って行きますが、左ということも

森も、無意識の奥深くへということを

表しています。

 

私たちの患者は、ベールをつけていました。

ベールをつける…ということは死を意味し、

ベールをあげる…ということは、復活や

動き出すことを意味しているそうです。

 

そして見詰め合うことは、同化することを

示していて、今までインディアンという

アニムスが担っていた導きの機能を、

患者自身が獲得して行ったようです。

 

ヴィジョンの続き

「それから中世の街に入って行きます。

街の中央には大きな広場があり、

そこには十字架が建てられていました。

 

自分の赤ん坊をその十字架に持ち上げている

女性がいて、インディアンが無視して、

黙って通り過ぎようとすると、その女性が

怒って赤ん坊をインディアンに投げつけます。

 

赤ん坊は二頭の山羊に変わり、牡牛の後に

ついて行きました」

 

中世への時間を遡って行っています。

前方の壁を越えなきゃいけない時に、

過去から何かを手に入れる必要の

ある時に、過去への退行が始まる

と言っています。

 

ユングは、導きの原理が、インディアン

という未開人と、牛で表現されていて、

この患者は理性や論理で考えることに

馴れていて、その原理を信用できない

ために、壁が立ち塞がっているようです。

 

その壁を解決する方法を中世に

求めているようなのです。

 

「赤ん坊を十字架に持ち上げる女」

というのはマリアのことだと、

ユングは言います。患者は、

この女性と一体化して、

マリアに関心も示さない導き手に

腹を立てて、赤ん坊を投げつけた

と言います。

 

キリストにさえ関心を示さない

導き手に対して反発しているようです。

 

山羊は牡牛と共にディオニソス神話に

属していて、パニックという言葉の

元になったパンという牧神も、

人間と山羊の中間の存在です。

 

ポンペイで発見された壁画に、

イニシエーションを受ける

女性が描かれていて、その横に

二匹の山羊が描かれています。

 

自然と一体化して神の力を

実感するためのイニシエーション

だし言います。

 

ヴィジョンの続き

「頭の後に光輪があり、

白い衣に杖を持った

キリストが現れ、

私は彼の前にひざまずいたが、

それでもインディアンは、

通り過ぎていくので、

私は仕方なしについて行った」

 

インディアンが、マリアにも

キリストにも興味を示さないことに

反発と怒りを感じ、彼女は自分が

キリスト教徒として、誰について

行くべきかを自問しながらも、

彼女が山羊に同一化することで、

キリストを捨て、インディアンに

ついて行くことを本能的に

選んでいるが、この選択はまだ、

彼女自身の意識の選択ではなく、

彼女のファンタジーが、

彼女自身の経験となるまでは、

まだまだ、長い道のりが

必要なことも示しているようです。

 

ヴィジョンの続き

「私たちは、高い塔のある大きな城に

着きます。テンディアンが呼ぶとも

城の窓から一人の女性が緋色の花を

投げ落とします。突然、一羽の駝鳥が

現れて、動物たちの中に加わります。

 

ローマ風やギリシャ風の神殿を動物たちと

一緒に歩いて通り抜けた。

中央に本丸のある中世の要塞に来ています。

一人の女性が外を見ています」

 

人を見ている女性は、先取りした、

予感を表す彼女自身です。

城もそうで、確立された強固で

安全な塀に囲まれていることを

表しています。

 

何故、駝鳥か…駝鳥は困った時に、

本当はただ逃げるだけですが、

昔からの言い伝えだと、砂の中に

頭を突っ込むと言われています。

状況も見ずに、インディアンに

すべて委ねてしまっていることを

指しています。

 

ヴィジョンの続き

「両目を閉じた顔を見て願います。

汝の両目を開き、わが目を覗き込め。

汝の両目が私に見えるように」と。

 

まず、文体が変わり、聖書の言葉の

ようになっています。

ファンタジーのより深い、神聖な

層になっている様です。

 

ヴィジョンの続き

「顔色が曇り、見るべからざる目が

見え、美と苦悩と光に満ちていた。

私は、それに耐えられなかった」

 

ユングは、これを彼女が本当に

良い刺激を受けた最初のヴィジョンだと

言っています。今まではただ、

ヴィジョンを見ていただけだが、

初めて、それが彼女の皮膚を貫いた

と言っています。

 

そして、彼女はそれを絵に描きます。

メランコリーをたたえる野獣の目です。

 

苦痛と快楽に満ちた意識以前の心的な

状態で、ギリシャよりもっとずっと以前の

動物レベルの魂の状態だと言います。

 

ディオニッソスの秘儀で目指すのも、

人々を動物レベルや、内なる自然、

神とのつながりを見い出すための

「始まりの目」であり、創造者の目だと。

 

彼女が動物レベルに達したとすれば。

ディオニッソスの秘儀の本質的な体験を

したことになり、根源的な自分との間に

橋をかけたことになる様です。

 

ヴィジョンの続き

「渓流にかかった木の橋を、馬に乗った男が

渡っていく。馬の上の男が、渓流の下の川の

流れで自身に洗礼している男をみた。

馬に乗った男は、鞍袋から数粒の小麦を

取り出して水の上に投げ落とした。

小麦は見ずに落ちるとすぐに芽を出して、

充分に熟した茎になった。その川に沿って、

土手は険しくなり、岩の隘(狭い)道に入る。

やっと陽の当たる平原に出た時、馬の乗り手が

あのインディアンであったことがわかった。

白いドームがたくさんある古代都市がひろがり、

インディアンがその街に入っていくと、広場に

群集が集まっており、太陽を拝み始める。

火や泉もあり、インディアンは馬を降りて、

顔や身体を火にかざし、無傷で立ち上がった。

その時、群集は彼に矢を放ち、最後の一本が、

彼の左脚の膝の下に当たった。彼がそれを

抜くと、血が流れた」

 

キリストもギリシャの神も通り過ぎて、

信仰のもっとも原始的な太陽崇拝の人とも

出会いますが、酷い目にもあいます。

 

ヴィジョンの続き

「彼は都市を離れ、一人で高い丘に向かった。

脚が不自由になったので、彼はそこで泣いた。

それから彼は再び、その都市へと降りてきた。

群集は彼から距離をとり、彼の周りに大きな

円を作って立っていた。彼は泉で自分の傷を

洗い、顔に水を浴びます。それから馬に乗って、

太陽の方向へと平原を進み、ついにあるインディアン

の村に着いた。そこで彼は馬を降りた。

インディアンたちは『見よ。彼が私たちのところに

帰って来た』と言う。その時、すべての動物たちが

森から姿を現わし、魚の群れは乾いた大地に身を

投げ出した」

 

彼は、彼女に対立(火と泉)や、太陽とのつながりや、

苦難から解放されて、仲間のところに戻れました。

ここで出てくるアポカタスタシスという言葉は、

…再生や原点回帰を示す言葉です。

九講はここまでです。

ヴィジョン・セミナーⅠ-1-8

ヴィジョン・セミナーⅠの

秋期第一部の第八講

1930123日の

セミナーです。

 

ヴィジョン1では、インディアンが中国人に

変わりますが、ヴィジョン2では、二人で

池の周りを巡って、中国人がインディアンを

池に突き落としています。

 

一見、ひどいことをしているようですが、

アニマ・アニムス・ペルソナなどが、

抽象的なものではなく、具体的な人物像

として登場しますが、その人物像の一人が

インディアンで、「池」という無意識の

層の中に戻っていったのです。

 

元々、これらの人物像は水面に現れた像で、

再び、その中に戻って行っただけです。

 

未知で、知覚できなくても、たとえば

肝臓は機能を停止してはおらず、

無意識の中で機能し続けています。

 

ペルソナは、衣服のように、

社会や他者に対して、腹の中を全部

ぶちまけてしまわずに、隠すことで、

表面上うまくやっていくためのものです。

 

アニマ・アニムスとペルソナは、

正反対の対になっています。

 

ペルソナとの同一化が強すぎる場合、

人に示しているだけの人物だと、

自分のことを思い込み過ぎると、

 

アニマ・アニムスに憑依されて

しまいやすくなります。

 

アニマ・アニムスに憑依されると、

盲信的になり、他者との対話が

成り立たなくなってしまいます。

「信念の壁」が出来てしまいます。

 

ただ、アニマ・アニムスも

正しい場所にいれば、

まったく問題はありません。

正しい場所とは、無意識の

表面で、意識にちゃんと

見えている必要があります。

見えなくなると、無意識の

奥で勝手な動きを始めます。

 

アニムスが、意識と無意識の

「橋」として機能している時は、

アニムスも、自我と繋がっていて、

コントロールもされています。

 

ペルソナも自我と世間との

「橋」として機能している時は、

ペルソナを演じている自覚もあります。

 

しかし、自我と一体になって

しまうと、憑依された状態に

なってしまうのです。

 

四機能のうち、優越機能が一つだけで、

他の三機能が劣等な場合は、

アニマやアニムスに憑依されてしまい

やすくなりますが、二機能以上が

分化されると憑依されにくくなります。

 

ここでの患者は女性なので、

アニムス憑依です。

 

アニマのように、気分ではなく、

借り物なのに誰かの他人の意見を、

教条的に信念の様に主張し出します。

 

この意見の中身自体は、

老子など価値があるものもあるとしても、

あくまでもその人自身の意見ではなく、

「借り物」でしかないので、

役に立たないと言っています。

 

同一化してしまうということは

憑依で、演じているのではなく、

確信になります。

 

同一化した瞬間、インフレーションを

起こしてしまいます。

 

アニムスが憑依してしまうと、

彼女はそれを自分個人の問題に

適用するだけではなく、

他人に対しても「皆が、

こうすべき」となってしまいます。

 

これは男性の場合のアニマは、

まったく逆で、個人の問題と

してだけ考えることが、

正しい場所ではないことに

なるようです。

 

社会に対してのペルソナなら、

高価な服や装飾品を身につけたり、

沢山の知識を持つことが、

立派な人という信用が得られますが、

 

神に対しての自身の苦しみにとって、

富も学歴も意味を持たなくなります。

 

インディアンが黒い水の中に

落ちることで丸い池が細長い川の

ように変化しますが、流れのある

生命力を持つ川に変化したのです。

 

川の一端には中国人が立ち、

もう一端には鶴や白鳥という

鳥が経ちます。

 

鳥は、天空を舞い、聖霊を表しています。

聖霊は、神ではなく、一瞬の心の高揚を

表していて、エクスタシーや、ふいに

圧倒をもたらしたり、という急な情動を

示しているようです。

 

「鳥」は、天啓や「稲妻に撃たれて」

神がかりになったり、180度生き方が

変わったりするような刺激を示して

いるようです。

 

ユングは、ある異端の考えの一つとして、

イエスは、ヨルダン川での洗礼までは

我々と同じ人間であったが、

洗礼の瞬間に聖霊である鳥が彼に降り、

人類の偉大な師に変容させ、

磔にされる寸前にイエスの身体から

魂を神の元に運んで、磔になったのは

イエスの外皮の人間の部分だけだった

という考えもあったそうです。

 

インディアンは、川の中国人側ではなく、

鳥の方に出て来て、鳥に「涙を拭きなさい」

と言われていますが、無意識の中を

潜って来たということは、抑うつ状態で、

メランコリックな疲労をしたと言います。

 

駱駝に乗って砂漠の中をウィグワムに

辿り着きますが、地下や水中でなく、

地表で…インディアンにとって正しい

位置にアニムスが置かれたのだと

言います。

 

駱駝が、アニムスを正しい位置に

運んでくれたことに対して、

おとぎ話などで、主人公に無理難題な

課題が課せられた時に、いろいろな

動物が手伝ったり助けてくれる例から、

本能的な部分の助けに委ねることを

指しているとユングは言います。

 

ただし、一瞬の助けや委ねとしては

有用だが、ベッタリと関わり過ぎて、

意識とのつながりまで薄らいでしまう

と、原始的な生活には適応できても、

文明社会への適応ができなくなるので、

バランスの大切さを説きます。

 

ウィグワムにいることが正しい

位置であることを、示すために

夜が明けた時にテントから、

「燃えた三つの十字架」が空中に

見えているのだと言います。

 

「三つの十字架」は、イエスの磔に

された時の両端の泥棒らを含めて

三つなのですが、これは新約聖書の

オリジナルではなく、ミトラ教の

牡牛の供養での二人のダドフォロス

にもつながっている象徴らしいです。

 

「三つの十字架」が「燃えている」のは、

これが彼女の自我や意志ではなくて、

呪術やマナのような、聖霊のような

高揚や熱狂性を表しているようですが、

この「燃えた三つの十字架」の重要性を

彼女自身が、わかってはいないと

言います。

 

彼女は、自分の意志で自分を変えられる

と思っているが、それはある程度であって、

新しいものを生み出すことまではできないと

ユングは言っています。

 

彼女の意識では、キリストは重要で

なくなっていますが、次のもっと良い

方法を見つけるまでは、無意識の中では

キリストによって動いており、

聖人を理想として犠牲の観念に

影響されたままなのです。

 

このヴィジョンの中では、

エネルギーに満ちた「燃えた三つの十字架」

の姿で、その重要性を示しています。

 

次のヴィジョンは、全文を示さず、

「白い鳩が黒い鷹に変わった」という

ところだけを紹介して解説しています。

 

鳩は弱く無害で、鷹は獰猛で略奪的という

対比と、白という正義と、黒という悪が

対比されています。

 

鷹は、エジプト神話のキリストと呼ばれる

ホルスの象徴が鷹で、卵を狙って急降下して

嘴でくわえて、奪います。

 

この卵も、全ての始まりを内包して

その内部は暗闇です。

 

神と呼んでしまうと、白く正義の

存在だけと考えがちなので、

さっきの聖霊と呼ぶのですが、

 

実は、正義や善も、悪が存在して

はじめてその対比で存在します。

 

刑務所に閉じ込めたままだと、

窃盗できない状態で、道徳が発達

したかどうかは判断できず、

銀行の金庫番をしながら、盗まなく

なってはじめて道徳の存在を

認められます。

 

つまり、悪を行う自由を持ってこそ、

正義というものも存在するようです。

 

また、抑制を追及すればするほど、

生きることも制限して行く面があり、

行き詰った状態の人に、冒涜的な

罰当たりな言葉を発せさせることで、

新しい水路を開かせたと言っています。

 

円柱の上で片足で何年も立ち続けたり、

信仰を証明して人々にも衝撃を与える

聖人もいますが、それは皆の理想の

生き方になるのではなく、社会的影響には

なっても、個々人の問題解決の方法として

は機能しません。

 

ただ、このヴィジョンは、生きるためには

熱狂が必要であることと、新しいことの

始まりに黒く変わることが必要だという

ことを伝えているということで、ユングは

この週のセミナーを締めくくっています。

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