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2015年11月

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-7

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第七講

1931311日の

セミナーです。

 

白蛇は交換可能で対立や葛藤から

協調する方向なので、彼女は

あがくのをやめ、横たわります。

 

しかし、緑の目の黒蛇は、

強い動きを持っていて、

何かが始まるようです。

 

ヴィジョンの続き

「すると黒蛇は巻きつくのをやめ、

私の傍らにいるだけになります。

 

『お前が歩くと巻きついて邪魔をする。

お前が休むと、お前の傍らにいる』

 

それから私はいきなり怒って

立ち上がり、その黒蛇を掴んで、

それを飲み込んだ」

 

自我中心の積極的な意志が動き始めると、

抵抗をしますが、諦めると休むというように、

蛇の動きは彼女の動きに連動しているようです。

 

動かないことを求めているようです。

 

次の「蛇を食べる」ことは、いろいろな

類話があり、そこから類推していきます。

 

①は、お伽噺に、蛇を食べて動物の言葉が

わかるようになったという話があります。

 

②蛇をトーテムとするインディアンの話ですが、

誰かを殺せるほどの力をつけるために、

蛇を食べるという話もあります。

 

③「マクベス」の中で、魔女たちが大鍋に

蛇を入れて食べるという場面があります。

 

④グノーシス派の人は、蛇の前で聖餐式を

行うようです。

 

⑤オルペウス教のサバジオスの秘儀では、

服の中を蛇に通過させる…象徴的に、

蛇を食べるということをやっています。

 

⑥エレウシス、エレクテウス、アクロポリス、

ケクロプスなど英雄が死んだ後に蛇になる

という伝説があります。

 

⑦ニーチェが「ツァラトストラはこう語った」

の羊飼いに関する章でも、蛇を食べます。

 

つまり、一つは魔術的な力を同化するためです。

祖先も埋められている大地の持つ、

魂の暗黒面を同化していくということです。

 

神は自分の仕事がいかに不完全かを

人間に知られたくなかったが、

人間を啓蒙した楽園の木の上の

蛇こそが、人間に意識をもたらし、

救済者であるという考え方もある。

 

ツァラトストラは、知性や意志・

合理主義こそが世界を支配できると、

大地から離れて昇ろうとするが、

大地に縛られていることを理解する

ために、蛇を呑み込むことが必要だった。

 

上昇の問題は、初期のキリスト教での

十字架が円の中の十字で、日輪・太陽の

象徴だったが、クロスする点が上昇して

下降する線の方が長い十字になっている。

 

また、古代人の未開人も、像や図像が

崇拝対象ではなく、その中の霊だと

自覚しているが、プロテスタントの

時代になり、像そのものと考えたために

偶像を否定するようになったそうです。

 

分析を受けている人の中に、

十字架に蛇が這い昇るイメージを見る

人は多く、大地の中に置き去りにされた

魔力を再統合することにも関係

するようです。

 

昇り過ぎて落下していきますが、

そういう退行によって、時代を遡り、

蛇でもある、ディオニュソスに

回帰したのです。

 

ツァラトストラのニーチェも、

ディオニュソスに任せ切ることが

できずに失敗した面もある様です。

 

ユングの頃のクライエントは、

ユダヤ教やカトリックの人は、

信仰体系に伝統があり、

自分で考えたり悩むよりも、

司教に聞く、司教もわからなければ、

バチカンに聞く。

 

とにかく、そう信じることで

機能しているが、何世紀もの

人間の欲望やリビドーを

コントロールしてきた

信仰が破壊されると、

その大量のリビドーが

流れ出さざるを得なくなるのだ

と言っています。

 

七講は、ここで終わっています。

 

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-6

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第六講

193133日の

セミナーです。

 

彼女自身が、一本の木に変身し、

その周りを森が囲み、

その外側を血のような

燃えるような赤が囲んでいます。

これはマンダラ構造になっています。

 

我々は外界の景色を目にした時、

目の中に外界が写っています。

見えるものは自分の一部を形成

する材料にはなっていきます。

ホルスの目です。

全世界を見たら、全世界を

心の中で描けるようになります。

 

外界の話ですが、集合的無意識も

同じで、そこにすべてがある

とユングは言います。

「私の無意識」という言葉は、

集合的無意識ではナンセンスだと。

 

排除したり取り入れたりして選択し、

個人の壁や境界の中に、囲うのです。

 

昔から、円の中により目的に沿う、

魔物や死霊に関する要素を集め、

魔物を召喚しようとしたりする

魔法陣というものもありますし、

 

古代人は、守り神として、

その人のより優れた面を

集めたダイモンという霊が、

その人の体に住み、

その人とともに死ぬと

考えられて来ていました、

 

また、病的な人は、

綺麗なマンダラに

なっていなかったり、

破れ目があったり

するようです。

 

自分の1/41/3が見知らぬ

自律的な要素に入り込まれると、

憑依や、ある旋律やイメージが

しつこく頭を離れなかったり、

強迫観念のようになることも

あると言います。

 

東洋では、中心点に注意を

集中させる中心化ということが、

言われて来たが、中心への

注意を維持せずに、外側の

壁に注意が行くと火は強まり、

焼き尽くされてしまいます。

 

彼女は、それを逆の

プロセスで進んでいます。

まず、血の中にいて、

赤い円と、その中の

一本の木になっています。

 

マンダラは、木の幹の横断面ですが、

縦にも木は伸びて、下方にいくと

根があり、その下には黄金の池があり、

上方に行くと、太陽に至ります。

上に成長する感じをもっているとも

言っています。

 

ラマ教でも錬金術でも、

対立する白と赤のペアを

より集めます。

 

そしてその二つの対立が

ぶつかりあうと大きな

エネルギーになります。

 

東洋には長い伝統があり、

鎮めながらエネルギーを

利用します。

 

西洋ではこの対立する

不穏な要素が数々の

面倒を生んでいますが、

このルシファーのような

面倒こそが、個であり

個人を表しています。

 

無意識から、その人独自の

部分を抽出して、その人の

個性化がはじまって行きます。

 

マンダラの4つの門は

リビドーの出入りする

出入り口ですが、

東洋では4つの調和や、

中心的であろうとして、

その4つから脱同一化

することが強調されて

きています。「対立するものから

自由であれ」と言われてきました。

 

西洋では、4つの機能の中の

1つの機能だけと同一化し

過ぎてしまいます。

 

次のヴィジョン

「私は笑っている山羊をみた。

それは、長い坂を降りて、

私を暗い洞窟の中に導いた。

 

そこで私は大きな二匹の白蛇と、

緑色の目をした一匹の

小さな黒蛇をみた。

 

黒蛇は私の左脚に巻きつき、

引き離そうとしても離れなかった。

 

二匹の白蛇が頭を顔の近くに寄せたので、

「あなたたちは誰?」と聞くと、

「私たちは、夜と昼、善と悪、

おまえの両眼、おまえの両手、

お前の両足」と。そこで私は、

闇の中で仰向けになり、

あがくことをやめた」

 

はじめの山羊は、ディオニュソス的な

原理や動物的な本能が彼女を

導いていることを表しています。

 

彼女は太陽の方に向いてしまいましたが、

上方にしがみつこうとすることが

彼女の永遠の問題で、もっと大地の

現実的な下方の無意識に

留まらなければならないのです。

 

そのために、洞窟に導かれています。

 

ただ、木になるということで、

逃げ隠れせずに、そこで起こることに

委ねざるを得なくなります。

 

蛇は、魔法使いの杖に巻き付いていたり、

医神アスクレピオスの職杖にもあり、

毒も扱えることを象徴するものでもあります。

 

また蛇は、下方から脊椎を昇ってくる

クンダリーニも関連して、その場合は

洞窟は人体の中の腹部にあたります。

 

白は、無垢さ、黒は邪悪さや毒気の強さを

表しています。

 

ただ、このへんの場面では、アニムスが

間に入っておらず、彼女自身が本能に

従っているのが印象的で、それは彼女が、

大地に根を張って、逃げられないという

事実に大きく関係している。

 

二匹の白い蛇は、対立したペアではなく、

右手・左手のように似たような等価同質の

ペアというものを表しているといいます。

 

また、左脚は…無意識の、暗い、不都合な側

を表していて、人間は基本的に未知の未来に

不安があり、前進する危険に対して、

過去が「足を引っ張って」抵抗する、

そういう側面を黒蛇が象徴している

ようです。六講はここで終わりです。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-5

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第五講

1931225日の

セミナーです。

 

彼女と集合的無意識の間という

アニムスとして正しい位置にいた

大勢で儀式をしていたインディアン

たちが逃げてしまっています。

 

次に現われた一人のインディアンが

「血を冒瀆したからだ」と

説明してくれています。

 

血の供犠に一緒に参加することが

必要だったのですが、彼女は

完璧や無垢・聖人を示す

白い衣装で登場しています。

 

野生動物の脅威や疫病や

飢えや寒さから、文明が

我々を守っています。

 

現実の脅威を遠ざけて現実味を

減少させて観念の中、上空に

生きています。

 

何でも想像でき、自由に切り替えて

安易に解決できる仮の世界に

生きています。血を軽視して、

本当の取り返しのつかない現実や

死を考えまいとしています。

それが「血の冒瀆」です。

 

無意識は、彼女にもっと血や大地に

降りて来ることを求めています。

 

ディオニュソスなどの古代人は、

自分が持っていなくて持っているべきものに

イニシエートされ、再生されることを

求めていて、牡牛や子羊を供犠して、

その血で沐浴が必要です。

 

血に浸かることは不快な気持ちや

興奮などをもたらします。

 

ヴィジョンの続き

「インディアンが彼女の頭に

血をそそぎ、彼女の衣は緋色になりました。

 

大きな血の渦が鼓動で振動しながら

私を巻き込んで行き、その渦巻に

身を任せると、それは私を螺旋上に

上方に運び、神の白い顔の前を

通り過ぎ、太陽を見て、黄金の池を

見て、一連の展開の早いヴィジョンの後、

暗い森のなかにいた」

 

鼓動を感じ、肉体的な感覚を

生き生きと現実味を強く感じて

います。

 

白い血の気のない神の顔は

後期のキリストのもので、

太陽はずっと原始的な神、

そして黄金の池…黄金は

錬金術でも求める価値でも

あるし、拝金的な、

現世利益的な貨幣の価値です。

 

彼女はあまりにも精神的な

善なる神を求めて来ましたが、

それは全体ではなく、

物欲的なものも、大地に

立つためには必要なのです。

 

ヴィジョンの続き

「血の渦の中にいる間に、

展開の速い一連のヴィジョンをみた。

 

神の白い顔の前を通り過ぎ、

太陽を見、黄金の池を見た。

 

それから暗い森の中にいた。

燃えるような赤い渦が

森を取り巻いていた。

木々の間からそれが見えた。

 

私の上着は緑色に変わり、

両足は柔らかな土の中に

沈んでいき、両手を持ち上げると

そこから葉が茂って来て

私は一本の木になったことを知り、

太陽に向かって顔を上げた」

 

白い血の気のない顔は

後期のキリストであろうと

言っています。

 

太陽は原始的な神です。

 

そして黄金の池は、

「金」を表しています。

彼女は崇高な最高善を

精神性だけを求めて

きましたが、それだけでは

「全体」にならず、

経済や錬金術を表す

拝金的な側面も…地や血の

性質として必要だということで、

彼女自身は強いショックを

受けています。

 

木への変身(メタモルフォーゼ)

がありますが、木は大地と太陽を

つなぐものです。

 

西洋文化での原始的な底は

動物になり、息というのが

もっとも原始的で、幽霊や

降霊会でも、風が吹くことで

霊の存在がしめされます。

 

東洋文化では、もっと静寂で、

植物的な引きこもり状態を

目指す面もあって、菜食も

そういう植物性を摂り入れる

という意味もあるのだと言います。

 

森の周りを囲む赤は、火でもあるが

元は血であるということと、

円周的に取り囲んでいるのは、

マンダラも表しているそうです。

 

しかし、この五講の最後の方の

マンダラが守りになるのは、

彼女がマンダラと同一化しない

状態で、円周の血の中に入って

しまうと、そうはいかない…

というようなことを言っていますが、

まだ、よく理解できません。

 

マンダラは、距離をとるために

必要で、融合してしまうと

よくないのかもしれません。

 

インドネシアなどの立体マンダラ

を見たことがありますが、

城壁や廊下などに囲まれて、

仕切られているところに

意味があり、赤く塗られている

ところは、城壁的な防御の

一つとして火が燃えていて、

その中に入ったら焼けてしまう

などとも言っています。

 

六講にもう少し補足があるのか

楽しみです。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-4

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第四講

1931218日の

セミナーです。

 

ヴィジョンの続き

「犠牲として祭壇に捧げられた子羊の前で、

たくさんのインディアンたちが輪になって

踊り、羊をほおり投げて、その血を顔に

塗りたくり、内臓を引きちぎって首にかけた。

私が、白い衣装で登場すると、内臓が宝石に

変わり、私はその宝石を貰うように懇願した」

 

インディアンということになっているが、

何故かキリストのように子羊を犠牲にしています。

 

一人のインディアンがアニムスでしたが、

ここでは集団で登場しています。

 

13世紀に、戦争・飢饉・疫病が蔓延した頃、

神が当てにならないので、人々は悪魔の方が

役に立つんじゃないかと、黒ミサが始まります。

 

ローマ人からすると十字架にかかった姿を崇める

こと自体が、サディスティックな異様な神で、

グノーシスの一派が、円陣を作って子どもを

死ぬまでほおり投げたという記録もあるが、

 

16世紀にローマ法王に禁止されていますが、

あちこちの教会で、このジュー・ド・ポーム

と呼ばれる子どもを犠牲にする儀式が

行われていました。

 

北米インディアンの部族も、自分たちが

生贄を使って、太陽の運行を手伝っていると、

本気で信じて、それをやめると太陽が

昇らなくなると思っていたようです。

 

しかし、神格化されて神になる体験は、

傲慢さやその生涯に一度の高揚の報いの

ために、自らや子どもの血や内臓の犠牲が、

子羊の犠牲を塗りたくって一体化する

ことになっていったようです。

 

血や内臓はまさに、生命力やエネルギー

そのものを表しています。

 

ヴィジョンの続き

「彼らに話しかけようとしたら、

彼らは消え、私は再び一人ぼっちになったが、

一人のインディアンが現れたので、

彼らが何故私から逃げたのかを、

聞いてみたら、『おまえが血を冒涜した』と

言い、そのインディアンの背後にたくさんの

動物がいた」

 

この冒涜は、ユングは彼女が神格化された

ことだと言っています。ありのままの自分を

しらず、幻想に惑わされてインフレーションを

起こすのだと言います。

 

彼女は、自分を素晴らしいと思い込み、

シャドウと絶縁して、シャドウに気づかないと

裂け目が生じます。

 

本当に気づいて一体化できるとコントロールを

失わないが、シャドウとのつながりを失ったことが、

血の冒涜になるのだと言います。

 

コントロールが不能となり、アニマやアニムスに

憑りつかれてしまうことにもつながります。

 

教会の異端として破壊されたグノーシス派は、

心理的事実を研究してきたもので、ミードと

言う人の「ある忘れられた信仰の断片」という

本に書かれていると、皆に勧めています。

 

ここで、この四講は終わっています。

ヴィジョン・セミナーⅠ-2-3

ヴィジョン・セミナーⅠの

冬期第二部の第三講

1931211日の

セミナーです。

 

橋を渡してくれるアニムスは、

とても人間的な姿で登場して

いるので、多くの人が、

無意識と意識をつなぐ機能で、

無意識側の窓口なだけである

ということに驚く人もいるが、

一つ一つの心の部分も、実は

とても人間的なのだと理解

できたらもそれほど逸脱は

していません。

 

アニムスが、無意識の窓口の位置にいる時は、

正しい場所にいますが、違うところにいると、

アニムスのマイナス面が暴走してしまうので、

気をつける必要があります。

 

間違った位置とは、意識と無意識の間じゃなくて、

自分と他人の間にいるような場合です。

対他人への窓口には、ペルソナがいなければ

ならないのに、アニマもアニムスも、

ペルソナの正反対なので、二重人格的で

悪魔的な形で出てしまうことになります。

 

また、アニムスが、深い無意識の中に

入り込んでいくことも、本来、

無意識の窓口が役割りなので、

アニムスが意識と離れ過ぎて

しまって、やはり問題になります。

 

夢やヴィジョンで、すでに充分自覚している

内容が出て来ているとしたら、その解釈は

間違っている可能性が多い様です。

意識で欠けていることを伝えようとしている

ものだからです。

 

ヴィジョンの中で、橋になって渡しては

くれましたが、アニムスが水の中に

落ちて行っています。無意識の玄関ではなく、

中に入って見えなくなると、無意識との

仲介ができなくなりますから。

 

一人で孤独になり、彼女が困ると、

動物たちが顔を舐めてきます。

 

動物と一体…無意識とも一体状態である

ことで、完全で、ものごとがあるべき状態、

タオの状態を実現しています。

 

尖った帽子は、ミトラに由来するピレウスを

示していて、神格化され高揚した彼女自身です。

 

黄金の舟も、太陽や神を現していて、

下方は動物と一体で、上方が神という

サチュロスそのものとなっています。

 

アニムスを橋として正しい位置に機能させる

ことに成功し、橋の向こう側にも渡り、

無意識との繋がりもつけています。

 

ただ、目標を達成した瞬間にアニムスは

落ちていって…意識から遠くなったので、

2000年近く前の動物のレベルになっているが、

現実の彼女は現代に生きていて、そこのバランスを

とるために、どう戻ってくるが問題になります。

 

彼女は、キリストを充分知っていますが、

そういう知識ではなく、生きた体験として

新しい形で再構築していかねばなりません。

 

このヴィジョンのシリーズは、ここまで

で終わっていて、ここからは新しいヴィジョン

が始まっていきます。

 

新しいヴィジョン

「私は、石の祭壇の上に犠牲として

捧げられた子羊を見た」

 

ミトラの牡牛は、動物レベルだけを示しますが、

キリストの子羊は、動物と人間の両方を示して

います。

 

神と一体化した高揚を体験すると、

その代償としてバラバラに

引き裂かれる体験が待っています。

 

オリシス-イシス神話は、

神と人間の仲介者を描き、

神学者からもキリストの先取りと言われ、

また、ディオニュソスも、バラバラに

された後に、妻セメレがその心臓を

呑み込み、再びディオニュソスを生む、

復活をも、先取りしています。

また、犠牲として十字架で罰せられる

神を祈るのに、罪に満ちた自身を

受け入れねばなりませんでした。

 

三講はここで終わっています。

 

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